多分日本人は燃え尽きちゃったんだ

反-近代主義みたいなのはそれこそ近代化の最初からあったし、対抗言論として近代・産業社会に対する一定の批判力を持っていたが、ここんところのその種の論はそれとはちょっと違うと感じる。
その典型がこれ。
日本人たちよ、日本を幸せな発展途上国に戻そう:Rails で行こう!
これ自体はかなり粗雑な論考でブコメでも評判が悪いが、この種の「もう成長はいいよダラダラ過ごそうぜ」みたいな気分は最近のこの種の論考に共通している。ブコメでの批判もこの気分自体には向けられていない。
先日、はてなの人気エントリにこの種のエントリが複数並んでいたことがあって、日本人はもう本当に働きたくないんだなー、と感じた。働きたい奴だけ働いて経済まわせば?とかもあったな。
労働自体に懐疑的・冷笑的な態度が目立ち、(日本の)労働環境の劣悪さを列挙して盛り上がるってのもこの一種だろう。働くこと自体にはもう価値など無い、って感じがベースにある。
働きたくないのはその意味が見出せないからで、これ以上豊かになれそうもないし、今十分幸せだし、ってことだとされる。
これは普通、十分に産業が高度化し社会が成熟したせいで、物質的な欠乏が解消し、働く=生産することに明確な意味を見出せなくなったからと言われてる。消費の低迷も基本はコレで説明されており、もう欲しいモノなんて無いのだ(若者の○○離れ)ってことになってる。
でもこの働くことに対する過剰な嫌悪を見ると、単にハラが膨れたからだけじゃなく、我々は働くことに「燃え尽きて」しまったんじゃないかと感じる。
労働に対する過剰な嫌悪は、労働に過剰な意味/価値を見出そうとしてきたことの反動だろう。期待しすぎ、裏切られたのだ。

一定の生き方や関心に対して献身的に努力した人が期待した報酬が得られなかった結果感じる徒労感または欲求不満。慢性的で絶え間ないストレスが持続すると、意欲を無くし、社会的に機能しなくなってしまう症状。一種の外因性うつ病とも説明される。

燃え尽き症候群 - Wikipedia

労働、生産、および生産物に対する嫌悪は、単にデフレ環境への適応という以上に、労働の価値を信じ/踏みにじられたトラウマ的記憶に対する心的な防衛機制なのではないかと感じる。

このような人が、やがて心身のエネルギーを使い果たし、憂うつ、無力感、無気力感、焦燥感、イライラ感を募らせて落ち込んでしまうのが、燃え尽き症候群です。また、燃え尽き症候群では、自己卑下や仕事に対する嫌悪、思いやりの喪失を伴うことが多いといわれています。

燃え尽き症候群とは?|「うつ」の心に癒しを。

今仕事に無条件に肯定的になるのは難しい。せいぜいライフハックの対象として、自己の内的な幸福や充実の道具として(生産/経済成長とは切り離されたものとして)見るしかない。
成長はもういいよと言う時、今のままで十分幸せだからというわけではない。成長を止めて何かもっとよい世の中が来るなんていうビジョンが信じられているわけでもない。
なにしろ言うに事欠いて「途上国になろう」だ。
ただ"それ"がイヤなのだ。それだけだ。
該当エントリでは、「これからはサービスで人を幸せにしよう」と「ニート大いに結構」が同じ文脈で相互に違和感なくおさめられてる。そこに新しい産業/社会の(たとえば寛容で人間的な)ビジョンなりを見ることもできるだろうが、何も考えていないと見ることもできる。少なくともそれらビジョンが要求するだろうコストの考察が拒否されている。お花畑である。
この種のうつ病の治癒には時間がかかる。つか時間をかけるしかない。休むしかないのだ。
日本人が十分に(もう20年もたったが)休んだ後に復帰するのは、どのような社会だろう?

追記:
ついさっき続きのエントリがうpされてた。他者との軋轢に触れたあと以下のように書く。ちょっと笑った。だいぶ弱ってるな。でもこういう気分は広く共有されていると思う。成長も変化も他者ももうイヤで、ただ自分の内側に引きこもりたいという気分はわからないではない。

現代はイデオロギーという「大きな物語」が崩壊した時代だ。指針になるのは自分自身の心の声だけである。その心の声は、自分がリラックスしないと聞こえないのである。もし疲れすぎていたら、まずはゆっくり休養することだ。

自分の頭で考え、自分で決めた生き方を貫こう - elm200 の日記(旧はてなダイアリー)