それ自身による"春樹的なるもの"批判

ムラカミハルキという作家への僕の判断が依存するもの - 地下生活者の手遊び
を読んでそれはないだろう常考、、とか書こうと思ったけど、すでに次のエントリが出ていてしかも説得的だと感じたので、もう書くこと無くなった。。。がちょっと。
めちゃめちゃ印象論になるのだが、この話題について、彼のエルサレム行きを批判的に見る人のうち、かなりの部分、村上春樹をあまり「読んでいない」と言う人がおり、また同様にエルサレム賞について「良く知らない」と言ってしまう人がいる。
(まあ日本的な謙遜であるとも言えるだろうし、村上に肯定的な人には彼のファンも多いだろうから当然読んでいる、というだけのことかもしれないが)
確かにエルサレム賞なんて今回の件まで知らなかったというのは普通にあるだろう。ただそれこそググレカスである、最低限ググってから語れよ。。。。ということを言いたい訳ではない。
誰もその発言/行為において、政治的な傾向から逃れることはできない。今回村上/ハルキストについてよく指摘されたように、中立を言うこともそれ自体政治的な傾向を持った態度だ。
当然批判者(便宜的にこの語を使う)が、村上のエルサレム行きを批判することもそうだ。彼らとて自覚的だろう。
だが気になるのは、彼らにおける批判の論理があまりに教条的/形式的に過ぎるということだ。言ってよければ表面的である。
エルサレム/ガザ/村上春樹/春樹的なるもの、目に見える単語がその印象において表面的に繋げられ、もっともらしいロジックをテクニカルに展開している。
当ブログの前エントリとも関連するのだが、彼らは(特に社会性を持つ)ある固有名を名指すことの政治性にどの程度自覚的なのだろうか?
村上春樹の名を、これまでの(作品における)彼とは別個に判断し得る、ある一点だけを抜き出して村上春樹という名に評価を与え得る、ということ事態が明らかにイデオロギー/プロパガンダ的な態度だ。"村上春樹"自体について語らない/関心が無い以上、そこで語られるのは何らかのイデオロギーであり、村上春樹の名はそれに使われているだけだからだ(だからいかようにも代替可能である。エルサレム賞でもいい)。*1
だが、そうすることのイデオロギー的な意味を自問するでもなく、安易に固有名を名指してしまうのはいったい何なのだろう?
村上春樹の作品を読まずしてその固有名を名指す、この自信はどこからきている?
確かに知らないからこそ言える(書ける)なんてことはある。
多くの批判者が、村上のエルサレムにおける態度をまるで審判的に見ようとしているのを目にするたびに、この人たちにとって村上の作品を知らないことは、むしろ村上を先入見なく中立的に見ることが可能かもしれない立場だと感じられているのだな、と思う(確かにファンには無理だろう)。
知らないことによって、あるいは村上とその過去の著作を切り離す操作によって、"村上春樹"自体と、彼を語る自らの政治性が消去され、今回の村上とエルサレム賞について透明/中立な語り/視線が立ち上がる(両方知らなきゃ磐石)。この視線の正当性により審判がまさに可能になるだろう。
自らを中立的であり得るとするこのような態度を例えば"春樹的なるもの"と呼ぶことは可能だと思う。それが無知/無関心/イノセンスをベースにしているらしい、という意味でも。
以後、ズラズラとそのような"春樹的なるもの"の批判でも書こうかと思ったが、(彼ら自身による)そのようなエントリはググればいくらでもでてきそうなのでやめる。検索/参照してください。


以下おまけ
ある固有名を名指して語る以上、その名はその政治性をもって、語り手自身を縛るだろう。
だれも政治性を免れることはできない。だが語られる固有名を抽象化/非政治化することによって、語られるロジックから政治性が脱色される。
彼の立場は依然として政治的だが、語られるロジックは全く透明/中立的で正当なものだ。ロジックの説得力と、それを語る彼の自信は、この正当性からきている。
繰り返すが、このロジックにおける中立は、固有名からその政治性を消去することにより実現する。具体的には、ある個人の一面だけを取り出し、他を捨象する語りによる。
政治を直接語らないことは別に政治的な中立を意味しないし、逆に政治を語ることがそのまま政治性に自覚的であるともいえない。しかしそのような単純化はしばしばなされる。
そしてある個人の一面だけを取り出し、そのほかの部分とは切り離して(また無関係なものと結びつけて)あげつらう、という態度が過去にどのような政治的結果をもたらしたのか、知らないと言って済むことなのだろうか?
ある名指された個人/固有名を任意の部分に分割し取り出す、それ自体が対象への批判/否認を含む行為だが、 そのことの政治性を無視した果てに、自分が批判しているものを知らずに批判を行う、ということが起こる。それは"春樹的なるもの"とは違う。もっと悪いものだ。
実際、人を追い詰めるのはイデオロギーではなく、それが用いるロジックである。多分イデオロギーの"悪質さ"はここに宿る。


・・・なんというか、全然うまくかけない。これほど攻撃的?に書くものでもない。もしこのエントリにちょっとでも共感したり、言いたいことが理解できたりしたエスパーがいたらもっといいのを書いて。。。。。

*1:無論、誰にも村上春樹自体を語ることなど不可能である。たとえ彼の「良い読者」であってもだ。固有名を名指すとはそういうことで、誰でも政治性を免れ得ない。