ちょっと前、GWにどっかのテレビで、歴代の日本映画の男優・女優のランキングをやってた。
テレビに限らずこういうのは定期的に企画されるが、もうかなり前からランクされる顔ぶれは決まっている(最近の俳優は出てこない。邦画、というか映画俳優・映画女優というのが事実上消滅しているということがあからさまになるわけだ)。
男優の場合は、長谷川一夫だの市川雷蔵だのの正統派二枚目に混じって、どう見ても二枚目じゃないのが必ず一人混じる。
その彼は他と比べて際立って「若い」。また彼以降の男優は基本的に出てこない。
というより、彼以降オトナの俳優がいなくなるのだ。彼以前には男優の魅力は「大人の魅力」で、渋かったり苦かったり色気があったりし、複雑な「内面」の表現が必要だったが、それが過去のものになった。
「彼」、ご存知石原裕次郎だ。彼は当時の感覚でさえイケメンだったのかはけっこう怪しい。それでも戦後を代表するスターになった。
若い男の自由
日本の代表的な男優を系譜的に見ていけばすぐわかるが、石原裕次郎以前には「若者」がいない。(また彼以降、「大人」がいなくなる)
彼以前には「大人の俳優」か「子役」しかいないのだ。これは多分当時の日本社会を反映している。大人と子供だけがおり、その中間の「若者」が社会的に存在していないのだ。無論19歳や21歳の男はいたのだが、彼らは環境によって単に子供だったり大人だったりしている。
日本映画史において裕次郎の存在が際立っているのは、「若者」の具体的な在りようを体現し、それを独力で確立したからだ。社会の中から「若者」を切り出し、その固有の魅力を定義した。
彼以降、彼の模倣・バリエーションが若手俳優の演技の定番になり、スクリーンに一群の「若者」が出現する。*1
しかし重要なことは、彼の登場の後、日本社会に実際に「若者」が現れたことだ。このことの重要性は(例えば高度成長以降、日本の消費経済を若者のライフスタイルがリードしたという事実からも)もっと強調されていい。*2
したがって日本において「若者」とは裕次郎の身体所作や価値観により定義されている。
彼のような身振りや仕草、彼のような言葉や口調、考え方やものの見方から、社会・経済や「大人」に対する態度、異性や性に対する行動や倫理観まで、「裕次郎的な」形式がその後の日本社会における「若い男」像を具体的に決めていっている。
それは彼以前の日本には存在せず、また現在も基本的に変わっていない固有のスタイルだ。現在の日本においてさえ、ある男性が「若い」ということは「裕次郎のようである」とほぼ同義だといっていい。
裕次郎以降、彼のような「若者」は大量に生まれているが、裕次郎の規定した「若さ」とは根本的に違った「若さ」を定義しえた人物は(俳優に限らず)いない。
彼の体現してみせた「若さ」の、特にポジティブな側面は、一言で言えば「自由」だ。
裕次郎が自由に振舞ったというより、「自由」という(抽象的・政治的な)概念が彼により初めて具体的な態度として現れた訳だ。彼は、それまであった大人(子供)の身体所作や喋り方、考え方から逸脱していて、この逸脱の仕方が「自由」という語の意味になっている。
だから、若い男性が裕次郎のように振舞うことは、「自由」に振舞うことだとも言える。
無論この「自由」は一連の規則性に則ったもので、それは端的に裕次郎の体現した価値観、倫理観によるものだ。
- 例えば金銭・損得に潔癖で、性に関しても意外に保守的だったり
- 規則・権威に対して反抗的か冷笑的で
- 他方で、その態度とは裏腹に子供じみた正義漢だったり
- 本質的に争いや孤立を好まず、集団への帰属意識が高かったり
その他あるだろうが、要は表面的な逸脱と本質的な理想主義傾向が特徴で、日本において男は今も、何らかの方法でこのカタチを模倣・踏襲することがポジティブな意味での「自由」なことで「若い」ことだ。
実際には、現在において裕次郎映画が古びているのと同じように、この「自由」の紋切り型もやや古びてきている。それでも男は今なお「若く」「自由」であることの具体的、技術的な方法論を手にしていると言っていい。*3
※この項続く
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