映画「ブンミおじさんの森」2010年 / 政治的に忘れられた人々

時間が空いたので北千住で観た。2010年のタイ映画で、その年のパルムドールでもある。
見る人を選ぶ作品ではあると思うが、個人的に非常におもしろかったので以下感想。
ただしラストシーンにまで言及する、「解題」に近いものになる。

ブンミおじさんの森(字幕版)

ブンミおじさんの森(字幕版)

  • タナパット・サーイセイマー
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ストーリーはwikipediaでも見てくれればいいが、病で死期の迫るブンミおじさんが、親戚(死んだ妻の妹)のジェンとその息子トンを自分の住む森に呼び寄せるというもの。
おじさんの森には多くの「猿の精霊」が住んでおり、そこに彼の死んだ妻の幽霊が現れる。
また行方不明の息子も「猿の精霊」の姿で現れる。

非常に「文芸的」な作品で、解釈は人それぞれだろうが、実際に語られている事柄はシンプルだ。
だが明らかにタイという国の近現代史を背景としており、それについて知識の無い者(オレがそうだ)にとっては、理解が難しいと感じる部分もある。

ただある意味で、20世紀以降はどの国も似たような歴史を歩んでおり (近代化=近代国家の成立過程だ) 、その意味で一定の普遍性を持った作品となっている。
実際、個人的にはこれを日本の近現代史との類比において、非常に共感的に見ることになった。

罪の森

この作品は終盤まで、おおむねブンミおじさんの住む深い森の中だが、この森が明らかにタイの国民/国家の潜在意識の場として描かれている。
そこは国民/国家が確かに手を染めた「罪」の記憶が、密かに隠されている場所だ。

 ブンミおじさんはかつて「共産兵」を内戦?で殺しており、それは同じタイ人だ。
彼はこの罪の「カルマ」が病という形で現れていると考えている。
(おじさんは政府軍の一員として戦ったらしい)

だが殺したのはブンミおじさんだけではない。いわばタイが国を挙げてそうしたはずだ。だがそれが忘れられているらしい。
あるいは「共産兵」を殺したことは仕方の無いことだとされているのかもしれない。
多くの人にとって「罪」としては記憶されていない。
 
それは「都会」から来たジェンとトンの態度に顕著である。
ジェンは「共産兵」殺しを知っているが、単に知っているだけだ。
おそらく彼女はそれに全く関与しておらず、実際に経験したブンミおじさんとは受けとめ方が違う。タイという国が近代化する過程に起こった不幸な事件とでも思っているようだ。

だがブンミおじさんにとって「共産兵」を殺したことは重い「罪」だ。彼は「共産兵」を殺した事を悔いている。タイという国家/国民の犯した過ちと考えている。
彼は今もその罪を生きており、その罪=病によって死ぬことを受け入れている。

死者の世界

この作品を観ながら、個人的に想起したのは漫画家の水木しげるだ(「ゲゲゲの鬼太郎」の作者)。
彼は兵卒として旧軍に従軍しており、東南アジアで悲惨な戦線を経験している。その経験を漫画作品にもしている。
敵軍との戦闘というより、軍組織の無能と無責任により、彼の部隊はある意味で戦闘より無残な経験をする。彼の部隊には玉砕命令が出ているのだ。
戦友達はほとんど死に、彼は生き残った(左腕を失っている)。

彼の失われた左腕は戦争を過去にせず、彼は戦後を生きながら戦争を生きることになった。
「死者の世界」を生きたと言ってもいい。
彼は生き残ったことに後ろめたさを感じており、平和で繁栄する日本で生きている自分に違和感を持っているからだ。
彼の言う「妖怪」の意味である。

どの作品だったか、戦後の東京の夜道で、水木しげるが死んだ戦友達(の亡霊)と再会するエピソードがあった。
彼は戦後を生きながら、死んだ戦友達にこそ親しみを感じている。
この映画のブンミおじさんも似たような経験を生きている。
ブンミおじさんの死んだ妻の幽霊が現れ、彼を抱く美しいシーンがある。
彼もまた「死者の世界」に生き、死者にこそ親しみを感じている。

このような死者との共感は「森」の中でだけ可能である。この親しみは「都会」のタイ人には共有されていない。犯した罪も殺した者もみな忘れ去ったからだ。

行き場の無い記憶

おじさんの死後も映画は続く。
解釈が難しく、あまり言及されない部分だが、この作品/作者の主題のもっとも強く出ている部分だ。

おじさんの葬儀は都会で行われている。
祭壇はチープな電飾に飾られ、葬儀の後にホテルでジェンがトンと娘(トンの妹)と金勘定をするシーンが続く。
(香典の風習は日本と同じらしい)
このシーンの途中、突如ジェンとトンの「分身」が現れる(妹には現れない)。
ジェンとトンの分身はホテルを抜けだし、これまたチープなカラオケスナックで途方に暮れる姿で映画は終わる。

この分身は森に行った2人にのみ現れており、「森」に触れたためと明らかだ。
それはかつてタイの人々が手を染めた「罪の記憶」だ。
それを知った以上、知らなかった今までの自分としては生きられない。だが「知った」彼らは現在の街の中で行き場がない。
それを知っている、思い出すことで、たちどころに行き場をなくす。

不都合な歴史

この作品がシンボルやメタファー、イメージを駆使した「文芸的」な表現になったのは、別にファンタジーを描きたかったからでも、東洋的な感受性を表現したかったからでも無いだろう。

忘れられた歴史的な「罪の記憶」を語ろうにも、今も軍による独裁的体制を持つタイには言論の自由がないからだ。要するに軍による検閲を回避するためである。

ブンミおじさんが殺した「共産兵」とは、実は共産主義者というより、民主化運動の大学生たちだったらしい。
軍は彼らを殺害し、それを隠している。
民主化勢力の弾圧など無かったことになっているのだ。今も彼らはたとえば「テロリスト」とか「共産主義者」などとされているのだろう。
この秘密が隠されている。「森」の中にだ。

ブンミおじさんの「森」は、別に生命の神秘の森などではない。
今も軍によるクーデター体制が続くタイで、語ることが許されない事柄が押しこめられた「不都合な歴史」の場として描かれている。

精霊たち

「森」にいる「猿の精霊」たちが、殺された上に歴史の裏側に葬り去られた「共産兵」=若者たちであることは疑いが無い。
だが重要なのは、ブンミおじさんの行方不明の息子もまた「猿の精霊」であることだ。
おじさんの「罪」の意味である。
これが単に軍事政権の圧制の問題であるだけでなく、タイの個々の国民の具体的な生活/人生を巻き込んだ問題であることがわかる。特に、実際に加担したブンミおじさんの世代にとって、政府が悪いと言ってすむ問題ではない。

この映画が、近代国家にとって普遍的であるというのはそういう点においてだ。このような歴史は国家の近代化の課程でどの国でも経験する。
幸いに民主的な国(日本もそうだ)において、そのような「不都合な歴史」が本当に抑圧されることは無い。
(最近では韓国映画において「光州事件」が頻繁に取り上げられている)
だが、多数の国民が何らかの形で関わる以上、それを忘れたい、無かったことにしたいと考えるのは、別に政府だけではない。

ブンミおじさんの見た未来

現在のタイにおいて「記憶」がどのように取り扱われているか、それが作中まったく唐突に挿入される静止画の複数のショットで示されている。
(これはブンミおじさんが見た未来とされているが、言うまでもなく現在のタイである。)
それらは軍人達が猿の精霊を「狩る」カジュアルなスナップで、森の中で神秘的な威厳をまとった精霊が、まるで安手の着ぐるみのように、軍人達はまるで遊び半分のコスプレみたいに見える。


これらは衝撃的なショットだ。
この作品において、「猿の精霊」とはつまり殺された若者たちのことだからだ。それが愚弄されている。
ブンミおじさんにあるような痛切な罪の記憶が、現在のタイにおいて、単に悪趣味なコスプレのように冷笑され、悪ふざけのネタ的に扱われているらしい様子が明白である。(アブグレイブ刑務所の写真のようでもある)

歴史が捻じ曲げられ、そこに生き、死んだ人々への敬意も共感も嘲笑されている。
立場が違うだけの人々の死をおとしめる悪意があからさまである。
これらショットが告発するのは、そのようなタイの現在である。
この監督の強い怒りを感じられる部分だ。
そして実際、これらショットには吐き気を覚えずにいられない。似たようなことは日本の現在においてもいくらでも起こっている。
というか、どんな国でも起こっているだろう。そういうことも考えさせる作品になっている。