「靖国 YASUKUNI」東京での公開中止だそうだ。
問題作『靖国 YASUKUNI』次々と上映中止で東京公開断念に…:Yahoo!ニュース
配給元は、「このような事態に陥ったことを大変遺憾に思いますし、日本社会における言論の自由、表現の自由への危機を感じております」とコメントを発表した
すでにブログの記事にしている人もいる。
稲田朋美議員が問題化した映画「靖国」がすべて上映中止に:dj19の日記
日本最強の存在は街宣右翼である:黙然日記
この種の「政治的な」映画が、政治的に翻弄されるのはやむを得ない部分はある。またこれを表現の自由の問題と考える人もいるようで(製作側はそうだろう)、無論そのような問題意識もあるだろう。政治家が間接的に絡んでいるし。
その意味では、その線での主張がなされるのは良いことではあると思う。ただ今回の問題点は一部団体の反社会的な行動で、言論の自由とかのレベルの問題ではないんじゃないかなーという話。
最近の似た印象のニュースとしては、プリンスホテルの件がある。(やはりこれを連想した人もあるようだ。脅迫が大手を振って歩く国:good2nd)
これも他の会場を手配すればいいので*1、個人的にはプリンスホテルが裁判所命令を無視したこともアリかなと思う。
結局は私的な営利企業なのだ。彼らにも彼らの権利がある。ホテルの公共的な性格を考えれば残念なことと言えるが、いわばその程度のホテルなのだということでスルーしていいと思う。
あるいは他方には、法に背いてでも客を守るというホテルもあるかもしれない。これもまた、私的な企業としてのホテルのありようではある。
いずれも法/命令に従わない以上、相応の処分があるだろう。しかしホテルはあくまで民間/市民の側にあるのであって、常に国・法と協調していかなければならないわけではない。客/市民がそのホテルの態度を評価すればいいのであって、国にホテル(の態度)を規定・強制されるいわれは無いのだ。
結局はいかに市民がホテルの態度をバックアップするか/しないかということで、本質的には法における権利とか自由とかの問題ではなく(無論それを問題視することは良いことだが)、いわば市民的な連帯の問題だといっていい。
市民的な自由や権利は、法にそう定められている限りにおいて存在するわけではない。法はこの種の自然権をいわば追認しているだけなのであって、その行使については市民の側に一義的な責任があるのだと思う。*2
そして、何らかの団体の無法な圧力により映画上映を中止するとしても、それは映画館の判断だ。しかし東京の全ての映画館が同様の態度となった場合、敗北したのは(法ではなく)市民だといっていい。これはいかなる意味でもいいことではない。
ただ同時に、DVDで見られるならそれでもいいと思う。そのような選択が可能な流通の条件が現にあり、それを「選択」するなら、これは敗北ではない。*3そういう「戦い方」も小市民的にはありだろう。
(あくまで今回の問題は一部団体の圧力のあり方で、それを措いておく一方で個々の映画館の責任のみを言うことは欺瞞で、目に付いた限りでは読売の一部記事や社説にそのトーンがあったのが残念。もっとも読売「編集手帳」はそこらへんがバランスとれてて良かったが。)
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