掛け算を「掛ける」と表現したバカは誰だ?

さてこんなことを書いていたのだが、界隈ではすっかり忘れ去られたこの話題も、自分の子供がまだ九九の学習中であるため個人的には継続している。
後続のエントリの最後に、ウチの子の先生は、掛ける数と掛けられる数を逆に書いた場合は採点を留保するとしていたが、これは毎日やるミニテストにおいてだったらしく、この前のちゃんとしたテスト?(日本標準社のいわゆる業者テスト)でウチの子がこれをやらかしたら、思いっきりXが付いてきたw
ウチの子は幸いに、すでに乗算における可換性について「腑に落ちている」状態なので、算数的には自分は正解であることを知っており(先生にもそう言われたのではないかな?)、大してショックも受けていない。
掛ける数と掛けられる数という区分け、その扱い方についてもわかっているので、不正解とされた理由もわかっている。
だが「分かっている」にも関わらず間違えるのは、要するにそれが分かりにくいからだ。
「掛ける数」とか「掛けられる数」とか、かなり抽象的というか小学生には分かりにくい表現ということだ。つか大人にも馴染みにくい。
つーことで、この週末にこの件ついてちょっと話してみるために、どのような説明であれば小学生にも簡単に両者を弁別できるか考えてみる。
(無論彼にとってもはやこれは便宜的なものだ。受験テクニック程度の意味しかないだろうが)
結論から言えば簡単な話だ。
「掛ける数」とか日常的・実感的でない言葉を使うのが悪いのであって、掛け算とは

○が△個ある。だから全部で□

と表現すればいいだけの話だ。
重要なのは文章から主語「○が」を見出すことだ。
例えば1そうに9人乗っているボートが8そうある場合、

9の集まりが8個ある、

わけだ。それ以外に表現のしようがない。どのように解釈したところで、主語=主体となる「まとまり」は9人でしかない。*1
だからこの文章題を式に書きなおすと

9 X 8 = 72

でしかあり得ない。そう文章が指示しているわけだ。
にもかかわらず子供が引っかかるのは、結局は「掛ける」という語そのものの問題であるように思う。
例えば英語なら掛けるは"times" で、文字通り「○が△回」の意味だ。
だが「七掛け」という用法があるように、「掛ける」という語はそれ自体すでに関数的な意味を持っている。直観的でないというか、内部の作用が直接見えない語だ。
1に3を足す、だったら何が起こるのか誰でもわかる。
だが2に5を掛けるという時、どのような作用が起こっているのか日本語として明瞭でない。
おそらくこの用法における「掛ける」という語自体が算数/数学規則の記号化だ(概念が先に輸入されたのかな?)。それ自体意味内容がないと言ってもいい。
例えばtimesのような語であれば「9を8回(足す)」となる。掛け算とは結局足し算が繰り返されたものなのだということや、何が起こっているのか、が理解しやすい。理解してしまえば、項順が入れ替わるなどということは起こらない。
だから多分この手の問題は、「掛ける」という用語をもっと直観的なものに置き換えればそもそも起こらない。
文章中における主語/主体にある作用が起こっている、それを記述することが式を立てるということだからだ。だが「掛ける」という語の持つ作用が分かりにくく、どこまでが主語で何が目的語なのか分かりにくくなっている。
一連の問題は、文章を多様に解釈できるなどということが原因ではなく、「掛ける」という日本語の持つ「作用」が明瞭でないため、それを各人で勝手に解釈しているらしいという現状が原因だったと言っていい。
以下のトラバをくれた人のコメントにそれが端的に表れている。「掛ける」の解釈が幅広く、そのため主語/主体を同定できずに「2通りの解釈」が可能になってしまっている。

既に色々な人が指摘していることですが、「日本語の語順」を基準にしてさえ、「リンゴ5個を入れる操作を3枚の皿に対して行う」「3枚の皿それぞれにリンゴを入れる操作を5回繰り返す」と、この問題は2通りの解釈が可能です。

では子供に何と言う? 要するに「掛ける」とはtimesなのだと言えば十分で、それで今後同じ間違いをしなくなるだろう。

おまけ

そして本当に重要なのが、この主語=主体は「普遍性」というか「同一性」を持つものであるということだ。
例えば100円玉が3つなら

100 X 3 = 300

だが、100円玉2つと10円玉1つでは同じような乗算式は成り立たない。100円玉と10円玉は同一でないからだ。だからこれらをいっしょくたに「主語」としてまとめるわけにはいかない。
同一のものだけが、その同一性ゆえに、単一の主語/主体となる。
文章において、主語/主体の同一性を見出し、追跡する必要がある。
その文章において、何が一貫した自己同一性を持った「主体」であるのか、「彼」に何が起こっているのか、文章を読み解くとはそういうことで、それは文学でも論文でも算数の文章問題でも変わらない。
それが「論理的である」ということだからだ。

*1:無論、「8そうそれぞれに一人づつ乗る」を9回、とすれば8が主語/主体になる。だが、ひとつの文章から複数の異なる主語/主体を見出してしまう=主語を同定できないこと自体が問題であり、それは文章の読解能力の問題である可能性がある。ただこの件に関しては後述するように「掛ける」なる語のあいまいさの問題であると考える。