掛け算の交換法則と低い次元の人のものの見え方

数年おきに出てくるこの問題が、一部でまた再燃している、というよりずっと消えていないのだろう。
「掛算順序固定」問題 - Togetter
かけ算の順序にこだわる教師と出版社の皆様へ
すでにこんな優れたw 分類まで出ており、、、ちなみに本項は肯定派-教育論派-根拠はあるよ派だが、否定派の算数国語分離派でもある。
掛け算順序問題派閥チャート
ちなみにこれはid:sokodoraによるIDコールの応答として書き始めたものだが、このIDコールって仕組みの「放課後体育館の裏に来い」的な不穏な雰囲気は怖いな、、

「掛ける」って何?

この件に関しては、確かに4本脚の鹿が5頭いて全部で脚は20本、を 4 x 5 だろうが 5 x 4 だろうがいいじゃねーかそんなもん、というのはわかる、というか自分の子供がちゃんと20本と書いたのにバツになってたらそりゃ理不尽だと思うだろう。
これはだいぶ前に書いたのだが、子供が(大人も)掛け算の順序に迷うのは(迷うから交換法則=可換性を持ち出し曖昧さを無化しようとする)、「掛ける」という語の意味・作用が直感的でないからだ。
普通われわれは文章問題を数式に直すとき、いったん「足す」「引く」「掛ける」「割る」という語により状況の変化を整理・抽象化してからそれを数式に置換する。
その場合、たとえば「足す」は作用が明確なので子供でも混乱しない。
「電線に5羽のスズメがいて、後から4羽来ました」という問題なら、大抵の子は迷わず

5 + 4

と式を立てる。5羽に、後から来た4羽を「足す」でいいからだ。
だが掛け算だと問題になるほど逆に書く子が増える。「掛ける」という語の意味がよくわからず、問題文中に起こっている現象をどう表現していいかわからないからだ。その結果「可換性」とか言い出す連中も出てくる。
だが可換性は数式を解く際の「規則」にすぎない。
例えば池に5羽のカルガモがいて、2羽が家に帰ってしまったら、、、は

5 - 2

でしかあり得ない。2 - 5 ではいけないのは「可換性」の問題などでは全くない。(まさかこの式は、引き算は不可換だから大きい数字が前、が根拠だとでもいうのだろうか?)
この式は算数規則によってではなく「5羽から2羽引く」という文章表現、およびその論理構造により決まっている。
「文章問題」で真に問題にされるのは、この文章を組み立てる論理能力だ。計算力ではない。
そしてここで言う論理能力とは、問題文の文章構造を解析し、概念を一意に取りだすことだ。
それには何が主語で何が目的語か、どのような動作が起こっているのか、といったことを正確に同定し、把握する必要がある。
後はそれを数式に逐次に翻訳・置換する、これが文章問題における「式を立てる」ということだ。
同一の文章から二通りの主語や目的語は出てこない。
文章を意味的に多様に「解釈」することは可能だが(着目するのは5頭の鹿なのか4本の足なのか、とか)、文章自体は一意に与えられており、そこに構造的に配置された主語は基本的に一つだ。
それにより上の引き算の前後項は決まっており、当然それは掛け算でも同じだ。
これをどうでもいいと言ってしまうなら、引き算の前後を決定するものは一体なんだ?
掛け算における前後項の混乱は、文章から一意に主語・目的語を弁別できないことが原因で、それは読解力の問題だが、掛け算においてのみそれが頻出するということは、要するに「掛ける」という日本語の意味作用の不明瞭さに起因している。
「掛ける」という言葉が具体的にどのような現象を指すものなのかが分からず、問題文を「掛ける」を使った表現に正確に置き換えられない。掛け算を使うことが分かっていてもだ。
5頭の鹿に4本足を掛ける??? 足が鹿に掛けるのか? つか立てかけるのか? みたいな。
実際、この語は素朴に直感的に日本語として意味がわからない。「掛ける」という語を適切に使えないことが原因で主語や目的語の混乱が起こり、数式における前後項の混乱が起こる。それは主体が何で、それにどんな作用が起こっているのか適切に表現できないということだ。
その際、交換法則は便利な言い訳になるだろう。最終的にはどっちでもいいからだ。だが前後関係には明確に文法的・論理的な根拠があることに変わりはない。

論理と規則

ちなみに、文章から一意に決まる数式を組み立て終わったら、そこからが算数規則の適用だ。お好みで交換法則でも何でも駆使すればいい。
だがここまでは算数ではない。ここまでは文章の論理構造を読み解き、それを数式に翻訳することで、算数規則の出る幕ではない。文章問題は子供の読解力・論理的能力を見るためにあるの。
さらにちなみに、小学生レベルでは算数は単に規則や形式の体系に過ぎない。算数規則により無問題だからといって、論理的に正当であるわけではない。論理的であることと、形式的・規則的であることは違う。
そして最後に、この「掛け算」問題が多くの人をいらだたせるたぶん最大の原因は、答えが合っているのに(そしておそらく子供は正しく理解しているのに)、掛ける数と掛けられる数の位置が違うというだけの理由で一律バツになってしまうという、教師の「形式的」過ぎる対応だ。
多くの人は教師にもっと「論理的」に判断してもらいたがっている。

階層の混乱

もうおまけなので読み飛ばしてOKだよ。
この手の(何年も前から続く)「論争」を見ていて思い出すことがある。
2次元世界の住民(アニメキャラじゃないよ)が、3次元空間をどう見るか、という子供時代に聞いた話だ。
2次元の人は、2階建ての建物の1階と2階にそれぞれ人が住んでいる状況を「そんなことはありえない」と考えるというものだ。平面座標上では1階も2階も同じ場所で、同時に2人が同じ場所にいられるはずがない。
無論3次元空間は縦方向にも階層化しているので、3次の住民はこの2人の場所を混同することはない。
「掛け算」の問題にしても、文章題を解く過程で言語的な論理能力と算数=形式的な規則を別々に用いる必要がある。これらは別のもので、一つの問題の中にあるが別の階層の事柄だ。
だが、特に交換法則を言い募る人の中に、この階層が見えていない人がいるように思う。別々の階層の事柄を一緒くたにしている。
数式を解くのに算数規則は有用だが、数式を組み立てるのに算数規則を用いることはできない。交換法則はすでに出来上がった式を解くプロセスで出てくるのであって、それは式を立てることではない。
式を立てるにはまた別の方法とプロセスがあるのだが、「数式」という同一の「平面座標」上にあるという理由でそれらを区別していない。算数規則が「数式になる前」の階層にも適用されると言っている。まるで2次元に住む人が3次元世界を見るように。