日食

酒井法子のダンナが逮捕された後、のりピー失踪/逮捕直後に書いたもの。"高相法子容疑者"の報道があふれて以降、それ以前の酒井法子にどのような印象を持っていたか思い出すのが難しくなっているので、なんとなく。
つか、80年代的な正統派のアイドルについて書いているが、それがほとんど最近のネトウヨの(小林よしのり的な)天皇観に近い感じになってしまっているのが自分でも妙に面白かったので、捨てておいたのを載っけてみる。
「日食」のタイトルは天皇とは関係なく、当時皆既日食が話題になったから。でものりぴーは日食の時もヤクやってたのね。。。

のりピー覚せい剤で逮捕かー。
個人的には彼女に何か特別な思い入れ等は無いのだが、普通の人が普通に見るような感じで彼女を見ていた。清純とか無垢とか天真爛漫とかそんなだ。
実際、彼女の一般的なイメージは現在も「最後の正統派アイドル」のままで、失踪中、逮捕に至るまでの彼女のメディアでの扱いもそのようなものだったとおもう。
基本的に同情的というか、何かの間違いだろこれ、とか、のりピーかわいそう、とかそういうものだ。彼女がそんなことをするはずが無い、と。
さすがに逮捕に至った今はそんなこと言えないが。
で、個人的には彼女に関して特に何も知らないので、以下は酒井法子本人とは何の関係もない話。
個人的にも彼女に逮捕状が出た時には、けっこうショックだった。別にファンでもなんでもないのだが、何かの間違いであって欲しいというか、あの胡散臭いダンナが悪いんだろのりピー可哀相とか思ってしまった。
というのも、別に彼女の思い入れがあるからでなく、なんというか、彼女はこの国の大衆文化の(換えの効かない)一部分を担っていたと感じるからだ。
タレントとしての彼女は、陽気で善良で清潔で弱くて誠実で、という善なる要素だけをまとめて体現していて、そのような存在が現在の社会にあってもまだ可能である、ということの象徴であった気がするわけだ。
それは作られたイメージによる錯覚と誰もわかっていたろうが、それでもそのような(内実のない)イメージを共同幻想的に維持することがまだこの社会/大衆文化は可能なのだ、まだどこかで誰かがそれを担っているのだ、という安心感の象徴だった気がする。
タレント/芸能人というのは多かれ少なかれそのような役割を担っているが、21世紀になって酒井法子は特別だったと思う。彼女がというより、アイドルであるということが。
アイドルはトイレ行かないセックスしないとか本当は誰も信じちゃいないが(笑)、それでもその動かせぬ現実をあえて否認しようという若いファンの無理矢理な態度がアイドルを成り立たせていたとするなら、この妄想/狂信を支えたのは、イノセンスや善良さへの志向だろう。それは思春期らしい、とかつてなら形容されたかもしれない空想的な理想主義(の変異)かもしれない。*1
今、あえてそのような態度を取ってみせる若いファンもいないし、アイドルもいない。酒井法子自身もそうだが、それでも彼女はギリギリのところでアイドル的であり続けた。アイドルとしての80年代的な作法を最低限のところで守り続けたわけだ。アイドルはもういないが、いわばアイドルのような酒井法子であり続けた。
それはウソだった、と言われてダメージを受けるほど我々も社会ももうナイーブではないが、それでも個人的には今回の事件で、まるで太陽が消えてしまったような感じがする。
"のりピー"ではなく、彼女のような役回りが消えてしまったような気がする。芸能界にはそれぞれの役割ごとに決まった数の「指定席」があり、席が空くとまた別のタレントがそこに座るようにできているが、のりピーが座っていた席は、彼女と一緒になくなってしまう気がするのだ。
21世紀にもなって、まだかろうじて支えられていた"希望"に似ていなくも無いそれが、酒井法子覚せい剤保持/使用によって破産した。なんてことしてくれたんだ酒井法子、というより、このような幻想をもはやこの国の大衆文化は支えられないのだな、と感じた。
正統派アイドルであり続けようなどと、現在のアイドル自身が本気で思っていないだろう。そんなことは不可能だし、なによりもう誰も望んでいない
だが、我々は何を望んでいないのだろう? このような存在は、実は最初から無理で誰も望まないものだったのではないか。そんな存在が可能な条件を満たした時代などありはしなかった。
ただそれでもアイドルは誰にも求められずに不可能なまま突如として現われ、受け手がそれを無理やり支える意味を勝手に見出している。アイドルによって、潜在的な何かが偶発的に方向付けられたのかもしれないが、とにかくそこに多数の「望む力」が生まれた。アイドルを、不可能を可能にしようとする意思だ。
だがアイドルと、アイドルの存在自体が証明であった素朴な"善"の実在を、少なくとも集団的には信じられなくなってアイドルは存在できなくなっている。
ノリピーの件も、そういう意味では「やっぱりな」ということだ。ある時期、それを信じることをやめたのは「正解」だったのだ。誰も現実を否認しなくなった。現実は現実であるというだけ正解なのだ。勝間本に似たタイトルがあったなw。
希望を語るより正答を語ったほうが良いのだ、ということだ。だがこれもまた別の妄想/狂信ではある。現実は現実であるから正しいのではなく、現実は正しいと言うから現実が正しいのだ。

*1:この潔癖な理想主義にも相応の偏りがあることは間違いないが。