小津の映画で見たような日

ちょっと前の事になるが、妹ちゃんの高校の卒業式があり、嫁と一緒に行ってきた。
この時までには妹ちゃんの受験はすべて結果も出ており、結局志望校には受からず、滑り止めに行くことになっている。
そのせいか本人はやさぐれておりw、そんなに上機嫌という訳でもなさそうだった。
校門付近で写真を撮ったが、なんというかブサイクな顔をしているw

入学手続きをすべて終え、大学側が言ってきたパソコン等も買い揃えた今になってもまるで乗り気じゃなく、大学生活に思いを馳せるなんて状態からは程遠い。そもそも彼女の口から大学のことなどほぼ出てこない。
まあ滑り止めに行く学生の春休みはみんなこんなものだろう。父も憶えがあるよw

 

卒業式は午後早くに終わったので、嫁と二人で昼食をとった。
(妹ちゃんは友達と遊びに行った)
たまたま学校の近くに嫁がテレビか何かで見た高級な?ステーキ店があり、ちょっと値段は張ったが入ってみた。

小洒落た店内に座りながら、嫁がまるでこのような場面で言うような台詞を言った
「とりあえずこれで一段落だね」

 

末子が高校を卒業した。
兄がすでに大学生だが、確かに大学生になればもう子供ではない。
親ももう「保護者」という感覚ではなくなる。
妹ちゃんもこれでそうなる。
卒業式を終えてみて、我々の心構え的に、彼女も(ウチラの庇護下の)「子供」ではなくなったような気がする。


一体どうやって食ったらいいのかわからないような肉料理を食いながら(店員に食べ方を聞いたw)、ちょっと奇妙な感覚になった。
特段何か喋ることもなく座っている嫁が、これまでと違って見える気がする。
別に式典用にオシャレしてるからではなく、なんというか、彼女をどう見ていいかわからないような気分になった。
この20年ほどで、オレにとっての彼女はもっぱら「ウチの子の母親」のようになっていて、いわば子供を介した関係だったのだが*1、その関係から結接点である「子供」がいなくなった。
彼女との関係が一瞬、何もなくなったように感じたのかも知れない。

 

ウチラ夫婦は子供を大学まで出す(むろん本人が望むなら、だが)というのを一つの目標にしてきた。
家計もそれを中心に考えており、すでに2人の子供が大学院に行くことになっても受け入れる準備ができている。
妹ちゃんの高校卒業/大学入学は、そういった意味では「親」としての最後のハードルを越えたということなのかもしれない。


小津安二郎は、その映画の中で繰り返し「娘の結婚」を描いている。
そこでは親が(特に男親が)、子の結婚により「親」でなくなる瞬間が描かれている。
親子の関係が、つまり核家族が解体する様子を描いているといってもいい。

この小津の父娘ものには、しばしば不可解なシークェンスが現れることで知られている。
典型的なのが「秋刀魚の味」の軍艦マーチを歌う場面だ。
酒場で父(笠智衆)が旧軍で戦友だった男と一緒に軍歌を歌う。このシーンが不自然に長く、意味ありげに挿入される。
だが実際には前後のストーリー展開とは特段関係がなく、何故そんな場面があるのか最後までわからない。

 

 

どうやら父にとって、旧軍での経験、戦時中や戦前の日本が何らかの意味を(シンパシーやノスタルジーを)持つものであるらしいとわかるだけだ。
ただそれは父が「父」であるためになんらかの意味を持ったものらしいとは言える。
たとえば「東京物語」では、娘(原節子)は、父の戦死した息子の未亡人である。父と娘の関係が終わるのは戦争が終わったからだ。

 

小津がそこに何を込めたのか、芸術的な意味は知らないし、ここでは関係ない。
ただベタな連想として、ウチラ夫婦の20年の子育てはまるで戦争のようだったと感じただけである。子育てを経験した夫婦にはありふれた感慨だろう。

 

我々は、もはや歌っても仕方ない軍艦マーチを歌うように値段の高い肉料理を食ったが、特別話すようなことも無く、ほとんどしゃべらずに食べ終えた。

考えてみればこれまで二人で話す事はもっぱら子供の事だったが、今やウチラ夫婦にとって子育てはノスタルジーの領域になりつつある。
別に娘が嫁に行く訳でもないが、やはり何かが終わったと感じる。
お互い「父」でも「母」でも無くなる。今はそうではないかもしれないが、いずれ確かにそうなると妙にリアルに感じられる。


「晩春」では父が何度もシャボン(石鹸)を探し家中をウロウロするシーンが出てくる。
だがそこで見失われているのはおそらく自分自身だ。「親」でなくなる親が自分を見失う様が描かれている。

まさが自分が小津作品の親の方にシンパシーを感じる日が来るとは思いもしなかったがw、むしろ核家族において、親は自分で想像する以上に自分を「親」なるロール(役割)に投入しているということかも知れない。

 

 

家族とは結局子供のためのものなのだとつくづく思う。
子の無い夫婦は家族ではないと言いたいのではない。
ウチラ夫婦にとって、「家族」とは子を育てるプロジェクトだった気がするのだ。
そしてなんというか、いろいろあった挙げ句、最後のハードルを越えてみたら、だだっ広く何も無い原っぱに放り出されたような気分である。

子供が「手を離れる」というが、手を離してみたら手元に何も残らない。「親」なる自分さえだ。
ウチラ夫婦はここに向かって懸命に走ってきたのだ。
その達成感の無さ、手応えの無さに途方に暮れている。

ちょうどこの2人のようにだ。

 

せっかくお高い料理を雰囲気のいい店で食ったが、お互い何かを祝うような気分にもなれなかったのは、たぶん嫁もオレと同じようなことを感じていたからかもしれない。

 

 

 

 

*1:別にセックスレスとかそういうことではない。

ポエムの中の女戦士

先日、漫画家の松本零士が亡くなった。

個人的には「ガンダム」世代なので、彼はちょっと上の世代の漫画家である。
ただ彼の作品に一時期親しんでおり、いくつか思い出したことと、ある時期以降考えなくなったことの続きを書いてみる。

 

小学生の時に友達に彼の漫画を借りて読んだことがあり(多分年上の兄弟のものだったのだろう)、それ以来彼の作品をいくつか読んでいた時期がある。
彼の作品には成熟した男女の性的なニュアンスが濃厚にあり、男子小学生にはそういう背伸び感が楽しかったのだw
たとえば「戦場まんがシリーズ」など、彼の作品を近所の古本屋で見つけては買っていた。
(当時の子供には過去の漫画作品へのアクセスは古本屋しかなかった)

そんなある時、別の友達から「クイーンエメラルダス」1巻を借り、それをきっかけにエメラルダスの単行本(全4巻)が古本屋に出てくるのを粘り強く待つことになる。(その友達も1巻しか持ってなかった)

 

全部揃ったのはいつだったか忘れたが、映画「銀河鉄道999」にエメラルダスが出ているのはすでに知っていた。
エメラルダスはメーテル似の宇宙海賊で、強力な宇宙戦艦に乗った、人々に恐れられる伝説の女戦士である。

 

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そうそうコレコレ

 

 

だが松本零士自身の描くこの漫画を読んでみると、エメラルダスという人物のイメージはだいぶ違う。
70年代の作品という時代背景もあるのか(また初出が少女マンガ誌のせいか)、エメラルダスはむしろ寡黙で内省的、もの憂げで受け身な印象の人物である。

ウチラ世代が「銀河鉄道999」などで知っているこの女海賊のイメージは、毅然として成熟した大人の女性だ。
だがこの漫画の彼女はまだ若い、未成熟なニュアンスを残している。
特に彼女が女海賊になる前のエピソードでは、まるで孤独で夢想癖のある「文学少女」のようである。

 

実際この「クイーンエメラルダス」という作品は、彼女自身のモノローグ/日記の体裁をとっている。
そのストーリーは彼女の主観により語られたもので、彼女のモノローグやポエムwで出来事の意味付けがなされており、それはロマンチックなものである。
この時代(70年代)、日記・手記、一人称のエッセイは若い女性の文自己表現の典型だが、この作品も自分に起こったことを感傷的に振り返る彼女の日記のようなものだ。

 

古文書のようなフキダシ?の「地の文」は松本作品にはよくあるが、この作品ではそれがエメラルダスの一人称である。

作中の彼女は周囲で起こることにほとんど無関心で、自分から行動を起こすことは滅多にない。
海賊ではあるがまったく好戦的ではなく、むしろ争いごとを避けている。向こうからやってくる事件や人物に対して身を引いて観察するだけだで、時折関わることがあるにしても、それは彼女の私的な好奇心からだ。
バロック装飾の宇宙戦艦に一人乗りこみ、もの想いに耽っている。彼女にとって宇宙は彼女の(ロマン主義)文学の場であり、感傷の場である。

「恋人」トチローとの出会い。トチローの彼女への率直な欲望、それを好感する若いエメラルダス、二人の肉体関係が背景の暗闇と彼女のポエムによって暗示されている。性欲は食欲に換喩され、直接には表現されない。

 

エメラルダスにそのような印象を持っていたが、後年ふとした機会にクイーンエメラルダスOVAというアニメ作品を、何話かたまたま見た。1990年代後半である。

おおエメラルダス懐かしい、などと思って見たのだが、、、、とにかくイメージが違う。
そこに描かれたのは活動的で好戦的なエメラルダスだった。作品のクライマックスは戦闘シーンで、エメラルダスの無類の強さが印象的な、大胆不敵な女戦士である。

あれ全然印象が違う、というよりこれはオレのエメラルダスじゃないオレのエメラルダスを返せwとほとんどハラが立って来るほどだった。

エメラルダスさんカッケー

だがいまさらそんなことに文句を言いたいのではない。
このエメラルダスの性格の変容が不審なのである。

ここで描かれたエメラルダスは、映画「銀河鉄道999」で星野鉄郎や宇宙山賊?アンタレスがイメージで語る姿そのままだ。彼らはエメラルダスをほとんど知らないが、あろうことかこのアニメは彼らの曖昧な憶測や伝聞に依拠して作られている。

彼女の部下だったというアンタレスは、エメラルダスを冷酷無比な女という。 むろんエメラルダスはそんな女ではない。要するにそれは彼の「女海賊に仕えた」という武勇伝、山師の吹くホラである。

要するにアニメ作家/原作者が、作中人物の語る「伝説」を真に受けている。だから作中人物が語る「伝説」そのままのアニメ作品が出来上がる。
フィクションの中で語られるフィクション(メタフィクション)が、フィクションに格上げ(格下げ?)されている。

しかしこの問題の本質は、作者がなによりエメラルダス自身の言葉を真に受けていることだ。
要するに彼女を無敵の女戦士として描く気になったのは、エメラルダスは当初から自分を「海賊」だの「大宇宙の魔女」だの言っているからだ。それを真に受けている。
だがそれは彼女が航海日誌にでも書いてる自意識過剰なポエムだ。それを文字通りに読んじゃイカンw

 

似たような問題に、エメラルダスとメーテルが実の姉妹だったというのがある。
(二人はただの友達のはずなんだけど。。。。)

実はこれもエメラルダス自身がそう言ってる。
だが彼女がメーテルを「私の双子の妹」と言ったとしても、それは図書館でリルケでも読んでそうな文学趣味の女の比喩表現だと考えた方がいい。

つかエメラルダスは感傷的で自己陶酔型の文系女なんだよ。自分を「海賊」だの「魔女」だの言っても要するに全部ただのポエムなの。
それを真に受けるなよ作者ともあろう者が。

 

 

これら一連の「問題」は90年代に起こっている。
ファンならよく知っている事で、この頃いろいろな作品やキャラクターを統一する「松本零士ワールド」が出来上がっている。ただ実際にはそれは多様な作品を無理矢理まとめあげたもので、長年の読者も困惑したようだ。

オレは継続的な読者じゃなかったが、それでもその作品世界は、なにか訳のわからないものを見ている、という感じがする。
これらはパラレルワールドだのスピンオフだのとは違う。
また単に設定に矛盾があるとかストーリーがおかしいとか質が低いということではない。

読んでいて、なにか口のうまい詐欺にでも騙されているような感じがする。
山賊のホラもエメラルダスのポエムも、フィクションの中で語られる嘘だが、この嘘が事実として作品のなかに平然と表れている。もはや論理トリックであるw
しかも読者が騙されるのではない。作者こそが騙されている。

 

だがそれはトリックでも詐欺でもなく、自意識過剰な文学少女のつぶやいた、どこまでが真実かわかりにくいポエムだった。
この時期の、不可解で何かが破綻しかけている松本零士の「世界観」を作ったのは、実はエメラルダスの曖昧なポエムであると個人的には思っている。
(ちなみにメーテルにも似たようなポエム趣味がある。この2人の周囲を取り巻く設定の無茶苦茶さは、たぶん彼女たちの言葉のせいであるw)

Ditto

ウチの妹ちゃんが今まさに大学受験の真っ最中である。
今の高校三年生ということは、中学卒業/高校入学の頃にコロナ禍が始まっており、まともな高校生活を遅れなかった学年だ。

勉強に限らず、楽しいはずの学校のイベントのことごとくが中止/縮小となっており、親としても不憫である。。。。

また親として不本意だったのは、リモート授業が妹ちゃんに徹底的に合ってなかったらしく、 コロナ禍に突入後から成績が継続的に下降し続けたことである。
(むろん迅速にリモート授業を展開いただいた先生方には感謝しかないが)
結局成績は持ち直すことがなく、最後の模試で本人史上最低記録を叩きだしての受験シーズン突入である。。。。

 

まったく関係無いが、個人的には最近NewJeans の Ditto を聞きつづけてる。もう毎日のようにヘビロテである。
アイドルという枠組みを維持したままここまでやってくるKPOPスゲーなと素直に思う。

 

アイドルなのに音楽的に優れてるなどと言いたいのでは無い。音楽性にこだわったと称するアイドルなら日本にだっていくらでもいる。

そうではなく、この作品が全体としてイマドキの若い女子たちのアタマの中を上手く表現しているように思えるのだ。
ウチの妹ちゃんを見ても、彼女らのアタマの中ではいつもこんなふうに音楽が流れ、友達とこんなふうに踊っているのではないかと感じる。

 


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音楽業界は完全な男社会で、作り手も受け手も男性であることが前提されてる。それは女性アイドルであっても変わらない。
そこでの女性アイドルは「男から見た女子」を抜け出ることが無い。

 

ただこのNewJeansはデビュー以来、過剰にキラキラしているのでもなく、見る者にアピールするシグネチャなどもなく、単に彼女たちが彼女たち自身で楽しんでるように見える。
そういうコンセプトのグループなのだといえばそうだろう。
実際、NewJeansも念入りに設計されたグループとおぼしい。

 

それでもその女子的カルチャーがそのままに押し出されてきたというのが興味深い。
音楽業界でそのような女子的な価値観が入り込む余地など通常は無いからだ。
(通常、男性のプロデューサーなりファンなりが、彼女たちが彼女たち自身であることを拒む。それはアイドルに限らず「女性アーティスト」であっても変わらない)


もっとも、個人的にはこのMVを見て、現在大学受験真っ最中の妹ちゃんのことを考えている。
彼女は高校生活の3年間、多くの学校行事が中止、縮小されている。

妹ちゃんの学校は私立の中高一貫の女子校だが、それなりに名物と言っていいような校内行事もある。
修学旅行も運動会も合唱コンクールも、ダンスも校外学習も、妹ちゃんの学校ではそういう行事が盛り上がる。生徒たちが楽しみにしているのだが、 結局それがことごとく中止である。

この学校は中高の生徒の一体感が強く、学校行事に意欲的で、妹ちゃん達も中学時代にはそれら行事に(高校生と一緒に)加わって楽しそうだった。
男親から見るとそれはいかにも女子校カルチャーで、共学校ともまた違う楽しさだろうと思う。教員も多くが女性だ。
そういう彼女の姿を(多分そういうことが一番楽しい年代の)高校時代にはほとんど見ることができなかった。

彼女の高校生活は一体どのようなものだったろう?
勉強はおおむね不首尾に終わったがw、いつも名の挙がる数人の友人とは、中学時代からケンカをしたりグループから外れたり仲直りをしたりと、結局ずっとつるんでるらしい。ちょっと前にそのうちの一人から筑波大の一次を通ったとのLINEが来たそうだ。

 

親としては娘を女子校に入れた理由というのはあるので、それは別に勉強だの進学だのばかりではない。
親としてもいろいろと思惑が外れた6年間だったがw、女子が脇役/補佐役に回らないですむ環境(残念ながら共学校では性役割意識は未だに根強い)で、彼女は彼女自身の高校生活を送れたろうか?

今はさすがに机にかじりついて勉強ばかりだが、なんというか彼女の高校時代が思うほど充実しないままだったことも、成績が下げっぱなしで自信なさげに受験に望んでいることも、親がどうにかできることではなかったにせよ、見ていて複雑な気分である。。

 

 

 

 

映画「ブンミおじさんの森」2010年 / 政治的に忘れられた人々

時間が空いたので北千住で観た。2010年のタイ映画で、その年のパルムドールでもある。
見る人を選ぶ作品ではあると思うが、個人的に非常におもしろかったので以下感想。
ただしラストシーンにまで言及する、「解題」に近いものになる。

ブンミおじさんの森(字幕版)

ブンミおじさんの森(字幕版)

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ストーリーはwikipediaでも見てくれればいいが、病で死期の迫るブンミおじさんが、親戚(死んだ妻の妹)のジェンとその息子トンを自分の住む森に呼び寄せるというもの。
おじさんの森には多くの「猿の精霊」が住んでおり、そこに彼の死んだ妻の幽霊が現れる。
また行方不明の息子も「猿の精霊」の姿で現れる。

非常に「文芸的」な作品で、解釈は人それぞれだろうが、実際に語られている事柄はシンプルだ。
だが明らかにタイという国の近現代史を背景としており、それについて知識の無い者(オレがそうだ)にとっては、理解が難しいと感じる部分もある。

ただある意味で、20世紀以降はどの国も似たような歴史を歩んでおり (近代化=近代国家の成立過程だ) 、その意味で一定の普遍性を持った作品となっている。
実際、個人的にはこれを日本の近現代史との類比において、非常に共感的に見ることになった。

罪の森

この作品は終盤まで、おおむねブンミおじさんの住む深い森の中だが、この森が明らかにタイの国民/国家の潜在意識の場として描かれている。
そこは国民/国家が確かに手を染めた「罪」の記憶が、密かに隠されている場所だ。

 ブンミおじさんはかつて「共産兵」を内戦?で殺しており、それは同じタイ人だ。
彼はこの罪の「カルマ」が病という形で現れていると考えている。
(おじさんは政府軍の一員として戦ったらしい)

だが殺したのはブンミおじさんだけではない。いわばタイが国を挙げてそうしたはずだ。だがそれが忘れられているらしい。
あるいは「共産兵」を殺したことは仕方の無いことだとされているのかもしれない。
多くの人にとって「罪」としては記憶されていない。
 
それは「都会」から来たジェンとトンの態度に顕著である。
ジェンは「共産兵」殺しを知っているが、単に知っているだけだ。
おそらく彼女はそれに全く関与しておらず、実際に経験したブンミおじさんとは受けとめ方が違う。タイという国が近代化する過程に起こった不幸な事件とでも思っているようだ。

だがブンミおじさんにとって「共産兵」を殺したことは重い「罪」だ。彼は「共産兵」を殺した事を悔いている。タイという国家/国民の犯した過ちと考えている。
彼は今もその罪を生きており、その罪=病によって死ぬことを受け入れている。

死者の世界

この作品を観ながら、個人的に想起したのは漫画家の水木しげるだ(「ゲゲゲの鬼太郎」の作者)。
彼は兵卒として旧軍に従軍しており、東南アジアで悲惨な戦線を経験している。その経験を漫画作品にもしている。
敵軍との戦闘というより、軍組織の無能と無責任により、彼の部隊はある意味で戦闘より無残な経験をする。彼の部隊には玉砕命令が出ているのだ。
戦友達はほとんど死に、彼は生き残った(左腕を失っている)。

彼の失われた左腕は戦争を過去にせず、彼は戦後を生きながら戦争を生きることになった。
「死者の世界」を生きたと言ってもいい。
彼は生き残ったことに後ろめたさを感じており、平和で繁栄する日本で生きている自分に違和感を持っているからだ。
彼の言う「妖怪」の意味である。

どの作品だったか、戦後の東京の夜道で、水木しげるが死んだ戦友達(の亡霊)と再会するエピソードがあった。
彼は戦後を生きながら、死んだ戦友達にこそ親しみを感じている。
この映画のブンミおじさんも似たような経験を生きている。
ブンミおじさんの死んだ妻の幽霊が現れ、彼を抱く美しいシーンがある。
彼もまた「死者の世界」に生き、死者にこそ親しみを感じている。

このような死者との共感は「森」の中でだけ可能である。この親しみは「都会」のタイ人には共有されていない。犯した罪も殺した者もみな忘れ去ったからだ。

行き場の無い記憶

おじさんの死後も映画は続く。
解釈が難しく、あまり言及されない部分だが、この作品/作者の主題のもっとも強く出ている部分だ。

おじさんの葬儀は都会で行われている。
祭壇はチープな電飾に飾られ、葬儀の後にホテルでジェンがトンと娘(トンの妹)と金勘定をするシーンが続く。
(香典の風習は日本と同じらしい)
このシーンの途中、突如ジェンとトンの「分身」が現れる(妹には現れない)。
ジェンとトンの分身はホテルを抜けだし、これまたチープなカラオケスナックで途方に暮れる姿で映画は終わる。

この分身は森に行った2人にのみ現れており、「森」に触れたためと明らかだ。
それはかつてタイの人々が手を染めた「罪の記憶」だ。
それを知った以上、知らなかった今までの自分としては生きられない。だが「知った」彼らは現在の街の中で行き場がない。
それを知っている、思い出すことで、たちどころに行き場をなくす。

不都合な歴史

この作品がシンボルやメタファー、イメージを駆使した「文芸的」な表現になったのは、別にファンタジーを描きたかったからでも、東洋的な感受性を表現したかったからでも無いだろう。

忘れられた歴史的な「罪の記憶」を語ろうにも、今も軍による独裁的体制を持つタイには言論の自由がないからだ。要するに軍による検閲を回避するためである。

ブンミおじさんが殺した「共産兵」とは、実は共産主義者というより、民主化運動の大学生たちだったらしい。
軍は彼らを殺害し、それを隠している。
民主化勢力の弾圧など無かったことになっているのだ。今も彼らはたとえば「テロリスト」とか「共産主義者」などとされているのだろう。
この秘密が隠されている。「森」の中にだ。

ブンミおじさんの「森」は、別に生命の神秘の森などではない。
今も軍によるクーデター体制が続くタイで、語ることが許されない事柄が押しこめられた「不都合な歴史」の場として描かれている。

精霊たち

「森」にいる「猿の精霊」たちが、殺された上に歴史の裏側に葬り去られた「共産兵」=若者たちであることは疑いが無い。
だが重要なのは、ブンミおじさんの行方不明の息子もまた「猿の精霊」であることだ。
おじさんの「罪」の意味である。
これが単に軍事政権の圧制の問題であるだけでなく、タイの個々の国民の具体的な生活/人生を巻き込んだ問題であることがわかる。特に、実際に加担したブンミおじさんの世代にとって、政府が悪いと言ってすむ問題ではない。

この映画が、近代国家にとって普遍的であるというのはそういう点においてだ。このような歴史は国家の近代化の課程でどの国でも経験する。
幸いに民主的な国(日本もそうだ)において、そのような「不都合な歴史」が本当に抑圧されることは無い。
(最近では韓国映画において「光州事件」が頻繁に取り上げられている)
だが、多数の国民が何らかの形で関わる以上、それを忘れたい、無かったことにしたいと考えるのは、別に政府だけではない。

ブンミおじさんの見た未来

現在のタイにおいて「記憶」がどのように取り扱われているか、それが作中まったく唐突に挿入される静止画の複数のショットで示されている。
(これはブンミおじさんが見た未来とされているが、言うまでもなく現在のタイである。)
それらは軍人達が猿の精霊を「狩る」カジュアルなスナップで、森の中で神秘的な威厳をまとった精霊が、まるで安手の着ぐるみのように、軍人達はまるで遊び半分のコスプレみたいに見える。


これらは衝撃的なショットだ。
この作品において、「猿の精霊」とはつまり殺された若者たちのことだからだ。それが愚弄されている。
ブンミおじさんにあるような痛切な罪の記憶が、現在のタイにおいて、単に悪趣味なコスプレのように冷笑され、悪ふざけのネタ的に扱われているらしい様子が明白である。(アブグレイブ刑務所の写真のようでもある)

歴史が捻じ曲げられ、そこに生き、死んだ人々への敬意も共感も嘲笑されている。
立場が違うだけの人々の死をおとしめる悪意があからさまである。
これらショットが告発するのは、そのようなタイの現在である。
この監督の強い怒りを感じられる部分だ。
そして実際、これらショットには吐き気を覚えずにいられない。似たようなことは日本の現在においてもいくらでも起こっている。
というか、どんな国でも起こっているだろう。そういうことも考えさせる作品になっている。