文系からみたモンティ・ホール問題 / 歴史なる詐術

先日渋谷で観たゴダールの「女と男のいる舗道」の感想でも書こうとしたのだが、全然まとまらないのでw 一部界隈で話題になったモンティ・ホール問題について書く。

 

これが発端だと思う。

cruel.hatenablog.com

 

これは山形の言う通りだろう。
たとえそこに至る経緯がどうだろうが、どのような操作がなされていようが、未知の2つの選択肢から一方を選ぶ以上確率は1/2でしかない。
たとえ表が99回続けて出た後であろうが、次のコイントスで裏が出る確率は1/2だ。

 

モンティ・ホール問題も同じで、司会者/モンティが何をしようがしまいが、ハギーワギーが何をしようがしまいが、山形が2つの未知の扉の一方を選ぶ以上確率は1/2でしかない。
あらかじめ決めていようが今変えようが同じだ。
(本人と紛らわしいので、扉を開く山形は以降"Y"とする)
 

ちなみに数学的に見た場合はwikipediaにある通りだ。
だがそんな事は(「頭がいい」)山形だって当然わかっている。
その上で1/2ではないかと言っている。

 

「存在」をめぐって

Yにとって「正解」の存在/所在は、彼が扉を開いた後に初めて確定するものだ。
Yは正解の所在を未だ知らず、したがってその存在は純粋に確率的現象にとどまっている。
それは「存在」していないのだ。

 

だがこの問題では、そして我々も暗黙に

正解はあらかじめ客観的に「存在」し、最後まで一貫してそこに「存在」し続けている

と考える。これがこの問題における錯誤の原因である。

 

「正解」はYが扉を開けた時、初めて存在が確定するはずだ。つまりまだ「存在」していない。
この問題文において、Yは結局最後まで扉を開けないからだ。

 

だが上述の通り、同じこの問題において、それは最初から「存在」していたかのように語られている。

そこでは事前と事後が混同され、過去と未来が同一視されている。
未来において正解に到達することが、実は過去からあった正解に遡行することと同じとされるのだ。

 

だがそのことの何が問題か?

 

あったあった詐欺

Yの選択を以下のように記述すれば(その問題が)わかりやすいかもしれない。

 

  1. Yは3つの扉のうちAを選択する。扉Aの向こうに「正解」が現実化する確率は1/3である。
  2. モンティがCを開く
  3. Yが再度Aを選択する。Aの向こうに「正解」が現実化する確率は1/2である。
    「正解」はまだ「存在」せず、選択肢はAとBしかないからだ。

 

Yにとって正解は未だ「存在」しない。
扉Cの不正解が確定したとき、選択しただけで扉を開けなかった最初の3択ゲームは、何も現実化しないまま、いわば起こらなかった未来として確定し、破棄される。
そして2択の問題が、それとは無関係に新たに出現する。
「それ」と言ったところで、それはそもそも無かったのだから当然だ。


だがモンティはすでに正解を知っていて、彼にとって「確定した過去」である。
だから、不正解をモンティが開示するとき、最初の3択が消えない。
モンティにとって正解は既にYの最初の選択の時点で 「存在」しており、Yの選択に影響を受けるからだ。


モンティの不正解の開示は、Yにとっても実は正解は既に「存在」していたことを語っている。
Yの「まだ確定しない未来」なるものが否定される。


ここでこの詐術の犯人が明らかになる。

この問題はYの未来についての問題ではなく、モンティの過去に関わる問題だったのだ。
モンティの過去を Yの未来として語るトリックである。

 

問題を見る視点がYからモンティへ密かに移動している。
Yは扉を開いていないにも関わらず、選択という「思い」だけで現実/確率が変わったかのように見える。
だが変わったのは視点の保持者である。
 

Yにとって未来とは何か

確定していないYの未来が、既に確定したモンティの過去に密かに置き替えられている。

そしてモンティが正解の「存在」を知っていたことで、未来は既に確定しているとの「思想」が暗黙に押し付けられている。
我々はそれを意識せず受け入れている。
注意しなければならないのは、この段階になってから数学的な(wikipedia的な)確率の算出が行われていることだ。


だが我々が自分の未来を考えるとき、それは(たとえば未来人にとっての)既に確定した過去である、と考えるべきだろうか?


Yはまだ扉を開けておらず、そして未知の扉は2つである。なら確率は1/2だ。
これはあくまでYの主観にすぎない。
(この問題を誤った人たちは、まだそこがYの主観的世界であると思っていたのだ)

このYの主観的現在は、例えば同様にハギーワギーにもあり、両者は一致せず、また同時に存在しても整合しない。


一方、この相互の矛盾を、モンティの視点は整合的に説明する。
Yが扉を開き、ゲームの全てが終わった未来になってみれば、モンティが正しかったことがわかるだろう。
(ただしこれはトートロジーである。モンティとはつまり「全てが終わった未来」だからだ)
その整合性をもって例えば合理的だの科学的だの言うことは可能である。

 

だがそれは、過去と未来の間にある「Yの現在」のあり様を正しく表現するやり方だろうか?

そこでは、Yにとって過去は確定しているが、未来はまだ存在していない、という現在がはらむ二重性が見落とされていないか?

YはあくまでYの主観的現在にあり、Yにとってまだ存在していないものは「存在」していないのだ、とは言えないのだろうか?

 

山形が「わからない」というのはおそらくここである。

 

自分の未来

この問題を考える者はみな、モンティの視点=「全てが終わった未来」から考えてしまう。
Yの現在も未来も、過去として扱うのだ。
そうすることで全てが整合する。


この視点/方法は、あたかも全歴史を俯瞰する超越的視点を持っていると、全歴史は既に確定しているのだと言っているようである。
(物理法則は宇宙の始まりから終わりまでを確定している、というように)


だがそのような超越的視点こそ、いわば全能ならぬ我々がモノを考えるための仮構に過ぎなかったのではないか?
それこそフィクションだったはずだ。 


では一体何がフィクションでは無いのか?


Yはまだ扉の前でウダウダいっており、そして未知の扉は2つである。
まだなにも確定していない、というY自身の現在がそれではないのか。

 

 

モンティ・ホール問題とは、未来はあらかじめ決まっている、未来は過去に内在している、という「思想」に関わる錯誤だといっていい。
要するに決定論である。社会学的には本質論だと言ってもいい。政治的には保守主義である。
あるいはイデオロギーとしての「歴史」だといってもいい。Yのたどる道筋は、始原において潜在するイデアが実現していくプロセスだというものだ。

 
だがこの問題の本当の問題は、なぜ我々はモンティの視点を疑うことができないのか、ということだ。
その思想・方法の持つイデオロギー性である。

 


ちなみにここまで書いて気づいたが、ゴダールの「女と男のいる舗道」の原題は"Vivre sa vie" 「自分の人生を生きる」だ。

 

 

映画「ベイビーブローカー」/子どものいない親たち

是枝監督の韓国映画「ベイビーブローカー」を見てきた。
評判通りのよい作品。長いが、個人的には全く長さを感じなかった。

 

主演のソン・ガンホはこれでカンヌの主演男優賞を獲っている。よい演技だったが、もっとも彼はいつも素晴らしく、この作品だけが特別という訳でもない。まあ賞はタイミングだということだろう。

 

しかし個人的には母親役のアイユ(IU/イ・ジウン)が非常に素晴らしいと感じた。アイドル歌手だが、ドラマにはたくさん出ている。映画は今回が初めて。
K-POPを10年以上聞いてきた身としては妙に感慨深い(以下イ・ジウンではなくアイユと表記w)。

 


10年前の死ぬほど可愛いアイユ

 

この作品についてはすでにいろんな事が言われているし、その価値のある作品だと思う。
だがここでは、そういうのとはちょっと違う感想になるかもしれない。

 

親、子

この作品の主要な人物を見ると、おおむね「親」と「子」であることがわかる。しかも普通ではない「親」と「子」だ。

 

この作品はもっぱら母子の問題、家族の問題を描いたものと理解され、実際そう見られるが、そういう観点で見ていくとこの作品は最後まで具体的な焦点を結ばないまま終わる。

 

家族とか親子とかより、むしろ「子」がおり、「親」がいる、という作品とみた方がいい。
出てくる「子」は、みな実の親が無い、捨てられた子だ。

 

そして「親」は3人。
子を捨てるアイユ、子に捨てられる?ソン・ガンホ、そして明示されないが子を持てないらしいペ・ドゥナ(先輩女刑事役)だ。

 

特に女刑事は、自分が子を産めないことが、産んだ子を捨てるアイユを追いつめる強い動機になっており、物語の推進力になっている。
事実上この作品はこの二人の女性のストーリーと言ってよく、それにソン・ガンホによる子供の闇売買が絡んでくる。
彼も別れた妻のもとに子供があり、その子供との面会時にもう会いたくないと告げられる。

 

そしてこの作品が最終的におさまりのいい終わりかたをしないのは、この3人の「親」の問題が最後までなにも解消しないからだ。
3人は「子の親になれない親」という不明瞭な立場に身を置いているが、それは最後まで変わらない。
最後になっても、彼らは「子の親」になれないのだ。
かといって彼らの「喪失」が描かれている訳でもない。この作品の着地点のわかりにくいところだ。

 

子はある意味で自足している。親に捨てられようが生きていく他なく、実際自力で生きていく。
だが親は?
ある意味で、親は「子の親」でしかありえない。子ども無しで親であることがないような存在だ。
そして誰も自然な成長の先に「親」なるものになる訳ではない。子を産めば自然に「親」になる訳でもない。

 

この作品はそんな「親になること」の見通しの悪さ、不自然さ、違和感がおそらく隠されたテーマで(監督がそれを意図しているという意味ではないが)、親になるために超えなければならないある断絶、親なるものが、単独では常に抱え込むことになる不安定さを描いているようにみえる。
3人の親はいずれも、子と適切な距離を持てず、どう扱っていいかわからない(女刑事ぺ・ドゥナに至っては、まるでベイビープローカーであるかのように振る舞う自分に気付く)。

 

そして親になる

作品を通して、「子への愛」「親子の絆」なるものが、その素朴な実在が試され、疑われている。親自身によってだ。
あってほしいと切実に願いながら、実はそんなものは(自分に)ないのではないかという怖れが、親自身によって抱かれている。
赤ちゃんボックスとそこへの子捨てという設定はそのための仕掛けだ。
(なのでストーリー構成上はこれはちょっと不自然でもある)

 

この同じ疑いは「子」によっても問われているが(捨て子だった青年役のカン・ドンウォンがまさに口にしている)、それに対して親は、たとえばアイユは、暗闇の中、表情を隠してしか愛情を語らない。
「子への愛」は影のようなものだ。それを見ることはできない。だから「見えない」ことによってこそむしろその場所に辿り着けるかもしれない。
親が少しづつそのように考え始めるのも、(血縁がなくても)「子」に問われることによってだ。
(何度かある「見えない」ことを象徴する場面で、アイユの表情の隠し方はいずれもとても見事で素晴らしい)

 

本作はロードムービー的側面を持つが、その度の途中、まるで旅の目的地のように、その場所の実在が「家族」全員に夢見られている。

 

「旅」が終わり、映画ラストでは親達は子をそれぞれの形で失うことになる。だがそれは愛情を失うことではなくなっている。
それぞれの「親」は、自分の内にのみ「子への愛」を抱え込む。それは現実の家族・親子という外形を伴う訳ではないが、この愛がある故に「親」である。
そして捨てられた子もまた、親に愛されなかったとは限らない。愛を見ることがなかったとしてもだ。

 

作品について

この作品は脚本にも是枝監督の名がクレジットされているが、どう考えても韓国側スタッフの手(アイデア)がかなり入っている。
特に話の「盛り方」が韓国ドラマ的で、ちょっと日本人には書けそうもない現地風俗が頻出するのも楽しい。台詞もカッコイイ。

これほど是枝映画でありながら、明らかに韓国映画でもあるのはそういう理由だろう。

 

また俳優たちの存在感はさすがという他ない。いい意味で曖昧なところがなく、フワッと演じていない。
みな自分が演じている人物を正しく理解している。


ストーリー的な不自然さは散見されるものの、俳優の力量とそれがもたらすドラマの厚みは迫力があり、最後まで一気に見ることができる。
特に後輩女刑事役イ・ジュヨンの一貫して健全な感覚は、見る者のストレスを低減して作品をとても見やすいものにしている。

 

 

カルトと信教の自由戦士

安倍元首相が襲撃されて約1ヶ月になる。
いろいろと展開していてなかなかに騒がしいw
ただ事件そのものに関して個人的に印象深いのは、容疑者の動機があくまで旧統一教会への恨みで、安倍元首相が狙われる直接的な動機が無いということだ。

 

本人の供述的にも、本当は(教団リーダーの)韓鶴子を狙っていたのだが無理なので、教団とつながりのある安倍元首相に狙いを変えている。
要するに、一国の首相まで勤めた人物が、単に他の誰かの代わりに撃たれている。

 

これは何というかマンガのような話だ。
多くのメディアが言うように容疑者の行動に飛躍がある。
彼は何を狙ったのか、何を撃とうとしたのか判然としないように見える。

 

個人の信教の自由

今やこの件は、容疑者が、自民党統一教会の関係を暴露するために行った、とみなされている。

だがそもそもの発端は、彼は統一教会との関係において「被害者」だったということだ。
自民党の存在など(つまり安倍晋三など)二の次のはずだ。

 

そして正確に言えば、彼を追い詰めた「加害者」は、実際のところ統一教会ではなく彼の母親である。
彼女の信教こそが家族の経済と生活を破壊している。
ある意味では、彼の家庭との関係において、統一教会は特に何か問題のある振る舞いをしているわけではない。
彼女の行動(教会への寄附・献金)はタガが外れていると感じるが、それでも彼女の主観的には彼女自身の自由意思によるものだろう。
それは洗脳のせいかもしれないが、責任能力を持つ大人に対して、他人が簡単に「洗脳されている」と決め付けられるものでもない。


不在の被害者

実際、福田議員はこんなことを言って、批判されている。

mainichi.jp

統一教会関係者による選挙応援に関しては「宗教・信教の自由を行使している方が応援してくれることが、旧統一教会から応援を受けることになるのかとの議論もある」と指摘。

 

この発言は顰蹙を買い、冷笑された後に忘れ去られたが、個人的には一連の事件報道中のエポックだと感じている。

 

山上容疑者が被害者でないのは、母親が加害者では無いからだ。
母親の振る舞いが加害で無いのは、それが「個人の信教の自由の行使」にすぎないとされるからだ。
福田議員の発言はこのロジックを下支えするものだ。


「自由戦士」たち

実際のところ、どこまでを信教の自由とし、どこからがカルトによる洗脳なのか、現実的には簡単に言えない。

 

だが議員が上で言ったことは、 そういう線引きが難しいなどという事ではない。
そして個人的には、この問題の本質はもっと別にあると感じる。自民党が問題になるのはそこにおいてだ。

 


山上容疑者は親の自由に押し潰されている。
教会も、信者も、その家族も、自由の観点からはその振る舞いに何も問題が無い。
いわば苦しむ者は自己責任で苦しんでいるだけだ。
彼の自己認識もそれに近いものだったろう。彼は自分の教団への恨みを不当なものと思っているはずだ。だからこそ彼は敢えて「不当な行動」へ踏み出せている。

 

これが犯行への心理プロセスだ。
だが、何かがおかしい。それは別に保守系与党と宗教団体の関係がどうという話では無い。

 

連中がうそぶく「個人の信教の自由」なるロジック、それで全てを処断しようとする態度こそが、この詐欺的な環境を準備し、彼を追い詰めている。
自らを被害者と認識できないような環境が存在している。苦痛は全て自分の責任であると受け入れる他ない状況が出来上がっている。だがそれは何者かに意図的に作られたものだ。

 

単に統一教会の繰り返す詐欺だけが悪なのではない。カルト宗教と癒着する政治が悪だというだけでもない。
ここにはもっと別の悪が存在している。
それは「自由」なる名を以って語られる底無しの悪意のようなもの
で、それが現実社会において政治権力的言説として存在している。

映画「犯された白衣」1967 /非モテとテロル

半端に時間が余ったので映画でも見ようと思ったのだが、どうしてもシンウルトラマンを見る気にならず逡巡してるうちに時間が押し、結局ウルトラマンを見れなくなった。
今からでも見れるのは、、、と探すと渋谷で若松孝二をやってるじゃんか。

 

「犯された白衣」1967年 若松孝二監督

いわゆるピンク映画で1時間程度と短い。
パートカラーの作品で、作中の重要なシーンだけカラーになる。
以下はこの作品の感想、批評というより、見たあとに考えたことだ。ネタバレもある。

 

主人公の若者(唐十郎)が嵐の夜、海沿いの看護師寮に迷い込み、若い看護師たちを意味もなく凌辱、殺戮するというストーリー。

 

嵐のため密室空間であるこの寮に、主人公を引き入れたのは看護師たち自身である。
彼女たちの動機はこの若い異性への(性的な)興味、好奇心で、それが惨劇の発端となってしまう。

当初は無口でおとなしそうだった主人公だが、寮内で一変する。
彼は拳銃を突きつけ、看護師を全て裸にした上で、 怯え抵抗し命乞いをする彼女らを一人ずつ無表情に殺していく。

 

プロットは一見するとポルノ映画として有りがちなものだと言っていい。
ただ主人公の猟奇的行動の動機が全く語られず、そのためポルノというよりほとんどサスペンスホラーである。
描写的にも、性的な凌辱よりも殺戮が強調されており、ポルノ要素はあまりない。
(ただしその残酷描写も、現在の水準から見ればおとなしいものである。)

 


この作品の意外なのは、この殺戮が、最後の一人を残して唐突に終わることだ。
この最後に残った看護師(夏純子) は、初めから怯えも抵抗もせず、最後に残されてからは主人公に親しげに話しかけさえする。
彼女のその親しげな語りかけと親密な視線が彼を無力化し、ついに彼はまるで胎児のように裸の彼女のひざ元に横たわる。

 

 

図像的にもこれは胎内回帰の表現だが、実は監督自身もそう言っている。
そういう意味ではわかりやすい結末であり、ありがちな男性ファンタジーだと言ってもいい。

 

だが個人的に思うのは、どうもこれは監督が言うような「胎内回帰」願望とは違うのではないかという事だ。

 

彼女は彼を恐れていないだけでなく、彼を「わかってくれる」存在として描かれる。そして彼女は全く母性的ではなく、むしろ幼なさが強調された少女である。


「何故? 何故そんなに血を流すの?」
「きみを飾るためさ」
「あたしを飾るのに、どうして他人の血を流すの? どうしてあんた自身の血を流さないの?」
「あたしを飾るなら、あんたのたったそれだけの血でいいのに」
「知らなかった。それであんなに見つめていたのか」
「お馬鹿さんね」

 

ここで睦言のように語られているのは何のことはない、フェミニズム的に言えば「ロマンチックラブ・イデオロギー」である。
吉本隆明的に言うなら「対幻想」であり、母親との同一化願望ではない。

 

要するに主人公にあるのは「胎内回帰願望」ではなく「承認欲求」と言っていい。
彼は異性による「承認」を求めていたのであり、そういう意味では今ふうなストーリーと見ることができる。

だがそれが何故大量殺戮のカタチをとるのか?

非モテとテロル

劇中、看護士はすべて裸である一方で、彼はずっと着衣である。
これは状況的に当然ではあるものの(彼に服を脱ぐよう命令されいてる)、図像的には不自然な対比で、彼が身体の露出を拒んでいる印象を与える。
彼は看護師たちの裸の身体を「見る」一方、自らの身体を「見られる」ことを拒んでいるように見えるのだ。

 

 

この作品において「見られる身体」とは性的な身体である。
(それは作品冒頭、二人の看護師による性行為が他の看護師に「覗かれる」ことで示されている。)

 

したがって彼が身体を「見られる」事を拒むのは「性的に見られる」事を拒むことであり、それは彼の性的な「自信の無さ」「役に立たなさ」を暗示していると言っていい。

 

そもそも彼がこの看護師寮に招き入れられたのは、彼女たちの「異性への好奇心」からだ。
だが彼はそれに応えられない。彼ができることは拳銃を振り回すことだけだ。

この「拳銃」は彼の性的な「不能」「自信の無さ」の喩/代償と思われるが、その結果起こるのは殺戮である。

 

彼が看護師達の中にこの無垢な彼女を見出すのは、彼女が彼を見るその視線によってだ。
彼が2人目の看護師を射殺したとき、彼女が彼を見つめていることに気付く。他の看護師とは違い、彼女だけは怯えていない。

 

「何故そんなに見るんだ。」
「何故見るんだ」

 

彼の殺人はこの時までに「性的な凌辱の失敗」を意味することが明らかである。彼女はそれを見ているのだ。

だがその彼女の視線は、彼への性的な期待も怯えもない。

彼の問う「何故見るのか」とは「何故自分を性的に見ないのか」という意味だ。主人公は彼女の視線の質を問題にしている。
彼女には「性的に見られる」ことがないと知った時、彼は殺戮をやめる。
彼女の膝に抱かれる彼は裸になっている。

 

 

これを彼の成熟の喪失と呼ぶべきかはわからない。
単にそう呼んでしまえば、胎内回帰とはいわないまでも、幼児退行として説明できるストーリーになる。
1967年当時であれば、当然にそのように解釈されたろう。
大の男が女の(性的な)視線にたじろぐなどという事態にリアリティは無かったかもしれない。
つまり彼は「大の男」になり損ねているに過ぎないのだ。

 

実は映画のラストで、この性的なファンタジーは単なるポルノではなく、現実的な政治・権力闘争の問題なのだと示される。
若松監督は当時の文脈において、現実的な闘争に疲れた/傷ついた男が退却する場として少女を夢想しているといっていい。

 

だが、それはつまり成熟した男女の関係もまた権力闘争の場だということだ。
実際、これを2022年に見る者は、そこに「性的弱者」男性の苦境と自暴自棄を見るかもしれない。
女からの性的な侮りの視線への、弱者男性の復讐劇と見ることができる。
それには一定のリアリティがあり、 現実にそれに似た構図の犯罪が起こってもいる。

 

 

だが1967年だろうが2022年だろうが、承認といおうが革命といおうが弱者男性といおうが、 結局男がやっている事は「無差別に女を殺す」事だ。
彼が現実的に抱える問題が、それが何であっても、彼の内面において女からの性的な侮りに置き換えられる。
それは一体何故なのだ?