広報されることと隠されること

子供時代を北海道で過ごしているので、今回のチベットのような問題の場合、どうしてもアイヌのことが思い浮かぶ*1。これは完全に個人的な連想に過ぎないが、同じような感じを持つ人というのはいるようだ。それぞれに違った回路からの連想だろうが。。
即座に「特亜」なる語に結びついた人もいるだろうし、そこから「産経新聞」に行った人もいるようだが(笑)

先住民の話:uumin3の日記


まず最初に思ったのは、アイヌが日本の先住民であるという事実は政府が認めるとか以前に当たり前のことであって、何を今更ということです。結局は権利闘争らしいということは次第に見えてきましたが、まずもって(特に北海道における)先住民としてのアイヌという認識は誰も疑いを挟まないものですから、

以前も以後も当たり前も何も、政府は認めていない。「結局は権利闘争」だが、それ以前にまず政府自体に権利闘争の自覚があるからこそその態度になり、アイヌはそれに対応している部分においてそう見えるに過ぎない。いわば主張が権利闘争に矮小化されているといっていいが、これは政府広報の威力だろう。実際、


現実に今そこにある問題としてアイヌアイデンティティの危機なるものがあったのでしょうか?

この部分は生物学的解決を肯定していると読まれて仕方ないが、uumin3氏にその意図があるようには見えない。しかし意図せずそう言ってしまうことが問題なわけだ。「そこにはそもそも問題は存在しない」という強引な認識は日本政府のものだが、uumin3氏も共有し、また中国政府も同様なのではないか?
一部のやっかいな利権屋が騒いでるに過ぎないとの、あるオフィシャルなパワーによる規定は、問題を矮小化することで本質を隠蔽し、しばしば(物理的・社会的な)暴力を容認するかもしれない。
実際、政府がアイヌを公式に認める/認めないと言う時に、本当に「危機」に直面しているのはアイヌではなく(単一民族としての)日本のアイデンティティなのだ、という自覚に至れないのはマズイ。
これは人ごとではない、自分の問題としてそこに存在しているのに。

そして(個人的に)アイヌの問題とチベットが重なって見えるのはそこで、中国は多民族社会を問題視していない。社会主義理論の前では民族概念は無意味なのだろうが、民族アイデンティティを無視することで経済/権利闘争に矮小化してみせるわけだ。

そういうのに乗ってヘイトスピーチを繰り返す手合いはどこにもいるし(中国のブロガー達も盛り上がってるらしい 笑)、政府はそれを擁護しているとみなされても仕方ない。
しかし本当に仕方ない人たちは、政府広報に悪意無く単に無批判な人たちかもしれない。
そういった意味ではヘイトスピーチわめきたてる人たちのほうがこのアイヌ問題を正しく把握しているとも言える。アイヌの主張を、自らの民族的同一性・文化的優位性の意識に対する批判だとベタに受け取り、反応している。そしてこの認識は結構正しい。

3/26 追記

とてもよくまとめられていると思う
チベット問題との温度差をすげえ感じた:NC-15

*1:札幌のような都市部に住んでいると、アイヌを身近に感じることは無いが無関係という訳でもない。小学校では郷土の歴史とかでアイヌについて習うし、アイヌの民話にも触れる。そもそも自分の住む町はもとより、北海道の地名の多くがアイヌ語由来なのだ