どんなふうに似ていると感じるのだろう?

http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2008/02/post_8941.html
一体どこが似ているのか書かれていないのだが(そのうち書くのかな?)、確かにちょっと似ていると思うことはある。
(以下は私が思うのであって小倉氏とは関係ない)

実際にアメリカ人にとって銃がどのようなものとして位置付けられているのか知らないが(よく聞くのは開拓以来の基本的な権利というものかな)、ニホン人である自分から見た場合、アメリカ社会における銃は「弱者の武器」という感じ。
銃の圧倒的なチカラの前では各個人間の腕力差が無意味化されるため、双方が銃を持っているとすれば、無法な暴力の場(治安の維持されていない場)において、朝青龍みたいなのと普通の女子高生が対等のチカラ関係になれる。
この「平等」は銃のチカラによってもたらされており、これが無いと腕力のある者の無法を止められない。それは、弱者は弱いという理由だけでただ虐げられるということで、銃があることで始めて弱者は公正な場で(例えば)議論ができるというわけだ。

無論、銃に関するこの考え方は日本人的には受け入れがたい(と思われる)。
銃のチカラは、例えば社会関係を維持するのためには過剰で、悪影響の方が大きいと考えるからだ。
では具体的に何が無法な腕力から弱者を守るのか? 法や理性、と日本人は考えていると思う。
しかしそんな日本人でも、インターネット空間でそれらに十分な信頼が置けると考えるだろうか?

ネット空間における「匿名」は弱者にとって「銃」に相当するだろう。これを手にすることで、より「腕力」の強い相手と対等な立場に立てる。少なくとも腕力を無意味化出来るのだ。
例えば小倉氏の言う「実名」には、その個人の社会的属性をも含むかのようだ。「実名」を単なる「発言主体の同一性」以上のものとして見るような態度は、以上のもの=「腕力」にモノをいわせようとする徴候であるかのようにも見える。

要するに弱者を何が無法な腕力から守るのか?という点に関して、多くの無名者・匿名者は不安を持っている。
例えば無名な人が無名であるというだけの理由で、その発言がないがしろにされることはあり得るわけだ。
(だからこそ実名制が必要だ、というのは一見正しいが順序が逆のように思う。豊かになれる者から豊かにというのと同じで、それでは貧乏人はいつまでも貧乏だ)

しかし無法とは何だろう? 単に実社会のようでない、ということを「無法」と感じるとしたらそれは、実社会ではあった(既得)権益を失う者の感じ方だろうか。
現在のネット社会が整然としているとは思えないが、だからといってこれが実社会のように組織される必然性は無いし、適切かもわからない。