火中の來未を拾ってみる

一部で、倖田來未の「羊水が腐る」のが(医学的)事実と異なるという理由で盛り上がっている。エセ科学よばわりされちゃってる場合さえある。。。

彼女のこの発言自体は、まぁあまりにも配慮がないというか思慮が無いというか、公共の電波なのだし、という気はする。
とはいえ彼女がこれを軽い冗談としていったというのは本当だろうし、それをあたかもエセ科学だの知性だのの問題として扱うのはどうよ、という感じがする。
という訳で、その点についてのみ彼女を擁護。

一般に25歳の女性なら、35歳というのはカナリの年上で、ほぼ想像の限界を超えていると思う。
そして現実の社会においてそうであるように、彼女も「女の価値」は加齢により衰えると考えているだろうし、その意味でのオバサンに対する軽い蔑視は日本社会が一般に持っている程度には持っていて当然だろう。
それと関連するが、女性は若いうちに結婚して子供を産むことこそが幸せ、ということも一般的にそう思われている程度には彼女も思っているだろう。
加えて高齢出産がリスクを伴うという医学的知識があれば、この「科学的事実」を背景に上のような偏見が擁護され、「35歳での妊娠」がからかいの対象になるだろう。

他方、彼女自身もまた女性であり、上のような女性に対する態度を偏見と見なすだろうし、それを自分の問題と感じるだろう。
彼女は経済的にも社会的にも自立した女性であり、そうであるからこそ、35歳まで結婚・出産しない可能性が結構高い/またそれが可能な立場だという自覚もあるだろう。
つまり彼女は、それなりの正当性のあるかに見える偏見に、いつか自分自身がさらされる危険を無意識的にせよ感じているだろう。

ならば彼女が「羊水が腐ってる」と自ら言う時、これは自虐である。というか、潜在的には自分をネタにしている。
人を笑うことで、「人のことは言えない」自分を笑う、ある意味典型的な笑いだ。
(そして自分と相手が同じようであることを示すことで、親密さの表現と祝福を意図してもいただろう)

「羊水が腐る」というのは事実に反する。しかしだからといってこれをエセ科学というのは間違っている。ちょっと調べりゃわかることだからだ。
これは放送電波に乗っているが、その意味で受け手のリテラシの問題でしかない。
例えば「水伝」が問題なのは、それが間違っていることではなく、科学を装うことと、それが教育現場で教師により語られることだ。科学とはひとつの体系であり、単なる知識/事実の集合ではない。「水伝」は教育現場でそれなりに体系的に、しかも教育・啓蒙的に伝えられるからこそ問題なのだ。
しかし倖田來未の発言はまったくそうではない。


彼女の発言を「過剰に」問題視する人は、上述の女性に対する一般的な偏見にあまり違和感を持たない人なのかも知れない。少なくとも自分の問題と捉えない人で、例えば男性なら一般にそうであるといっていいかもしれない。
そういう人には彼女の冗談のニュアンスが伝わりづらいということはあるだろう。無論彼女の言い方にも問題があったのは確かだが。