弱者という正当性の不当性

事件そのもの、およびその報道そのものの話ではないけど。。。。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080213/p1

http://d.hatena.ne.jp/terracao/20080214/1202970715

この手の事件が起こる場合、被害者の落ち度をことさらににあげつらう傾向を持った人/媒体というのはいる。
無論加害者が悪いのは当たり前なので、それを言ってみたところで「目立てない」というのはあるだろう(特に「媒体」には)。
だたそれとは別に、そこに彼らのオブセッションのようなものを感じないこともない。

恐らくは自らも弱者である(?)彼らにとって、弱者たる存在の正当性を否認しようとする身振りこそが、自らの「弱さ」の唯一の不在証明なのだろう。彼らもまた弱いが、それはいかなる意味でも正当なことではないし、肯定されるべきものでもない、ということだ。
彼らは事実として弱者であったとしても、公にそう名指され、そう認識され、そう扱われることを拒みたい。
これは尊厳の問題かもしれない。だから弱者を弱者として扱うこと全般に反発するのだ。例えば犯罪被害者を弱者と名指し、弱者として扱うことは、結局弱い自分が弱者として名指されることを正当化することだからだ。

実際、大手の「強い」メディアやそれなりに地位のある「強い」人物は被害者/弱者の責任など言わない。それは保身のためのタテマエ・偽善というより、単に彼らにはそうと言う(内的/存在論的な)必然性が無いのだ。むしろ彼らは弱者/被害者にシンパシーさえ感じるだろう。しかしそれは「当事者」ではないからだ。
だが例えばネットの匿名掲示板で(あるいは業界最弱の全国紙で)、被害者の軽率さや躾の問題に言及してしまう時、そこには自らの弱者としての「当事者」性の(無)意識があるだろう。それは自分のことなのだ。
つまりこれは偏見の問題でもないし、イデオロギーの問題でもない。言うならば階層/格差の問題だ。
無論だからといってこれが最近の傾向ということもないだろう。

時折、明らかに困窮し、生活が立ち行かないのに生活保護を拒む人がいる。生活保護を受けるような人物と名指され、そう扱われることを拒むのだ。事実そのような人物であるにもかかわらず。
被害者に対するバッシングは潜在的にはこれと同じ根っこを持つかもしれない。
(ついでにネトウヨが小泉-安倍路線を支持したのもね)

まあ新聞/メディアはともかくとして(彼らには彼らなりの動機が別にあるだろう)、個々の無名な、弱者かもしれない人たちにとって、これは自己否定の身振りか? 単に自分の「弱さ」を否認したいということ?
客観的にはそう見える。だが尊厳の問題といったが、弱者と名指されることの屈辱に「強者」は無関心だし、ならば彼らの「敵」は犯罪被害者ではないはずだが、現実には攻撃の矛先をそこにしか向けられないことにこそ彼らの「弱さ」が現れてしまうのだが、、、、