族としてのオタク

いや、なんとなく思っただけなんですけどね。。。。。
一般に「アキバ系」というのがあるが、これは「オタク」とは微妙に違っている(多分)。
簡単に言うと、オタクのようなものアキバ系で、オタクというオリジナル情報に連なるコピーというか引用という感じに近い。逆に言うと「アキバ系」の引用/参照元としてオタクが位置づけられている。
だから「アキバ系」なる語は人間だけを指す訳でなく、単に商品を指すこともある。
そこでは「オタク」なる共通のオリジナルコンセプトが前提されており、オタクという統一したデザインコンセプトを多様に再-現するものだ。「アキバ系」とはオタクイメージの反復であって、コラージュ・リミックスといった手法が用いられる。
これはなにもアキバ系に限らない。いわゆる若者風俗における最近の流行現象、「〜系」に共通した特徴だ。先行するオリジナルと、それに関する知識/情報が前提で、断片化され無意味化した情報が、表層的に順列に組み合わされ「系」が起こる。情報の断片化/流通には一般にメディアが関与する。
これは東浩紀の言う「データベース」に近く、彼はほかならぬ「オタク」をもそう定義している(実際には、または本エントリの文脈で、それは「アキバ系」の定義だが)。
若者文化における流行現象は、かつては「〜族」と言われていた。
太陽族あたりから始まり、アンノン族だの暴走族だのおたく族(オタクも最初は「族」扱いだった)だのいろいろあったがほぼ全て消えた。
族なる語は、結局それに参加している人物、あるいは固有の行動の様式、コミュニケーションの形態を指していたのだが、その意味でオタクというくくりは「族」に近い。そう呼ばれないのは社会規範に対する異議が見えないからだ。自分を顕示しようとしていない。(当初そう呼ばれたのは、宮崎勤事件の衝撃と多分結びついている)
族はいずれも滅びたが、オタクが残っているのは社会通念の変化と基本的に無関係で来たからだろう。これだけ歴史が長いと自己言及的/メタ的になってくるのは仕方ない部分があって、オタクの自嘲的・自家撞着的なキモい態度には、オタクの(虐げられた?)歴史への自意識が背後にある。
だがこれは(少なくとも東の言う)「データベース的/動物化」とは別の現象だ。実際、アキバ系的なオリジナルの引用は、旧来オタクとの距離の意識において、オタクの自己言及とは異なっている。
多くの「族」は消え去ったが、それは単に社会規範に対する異議の意味を失ったためで、容認され一般化したからだとも言える。その意味でオタクももはや(あらかじめ?)解消した族といっていいが、「アキバ系」というある種のマーケティングのカテゴリと、それにあわせて自分を構成しようとする人々がそれに取って代わった。オタキングにより批判されている人たちだ。
ではオタクは死んだ?
これはわからない。個人的にはまだいるだろうと思うし、それを前提にここまで書いてきている。
ただ「真のオタク」(第一世代?)なるものはもともと少数者で、現在いたとしても変わらず少数であるという気がするし、多数の類似品とそれを見分けることはできそうにない。なにより彼を今(第一世代=オリジナルな)オタク的だと感じるかもわからない。
その意味では、オタクは死んだというより見失われたのだ。西暦2008年において、(オタキングの言う)オタクとは具体的にどのようなあり方なのか?