子供というものは存在しない

自分にも小さい子供がいるせいで、なんだか最近ずっと薄ーーく考えていること。

「『きかんしゃトーマス』って、昔観てたことあったけど、全然面白くないんだよね」
その言葉を耳にした瞬間、僕はなんだか冷水をぶっかけられたような気分になりました。
彼はもちろん、いままさに『トーマスバス』から降りてきた僕たちに向けて言ったわけじゃなかったはずだけれど、その声はちょっと大きすぎたのです。

2011-05-16

個人的にはトーマスはそんなによい子ちゃんの話ではなく、むしろ性格の悪い貨車とか利己的すぎる機関車が意地悪や嫌味を素でやり合う、日本の幼児教育的環境からはかなりかけ離れたお話しっつー印象があるのだが。。。。
(つかリアルな幼児の関係に妙に近いよね)
そんなことより気になったのが、ブログ主の関心が、子供がそれをどう聞いたかに向けられているということ。

でも、その場で、彼のことばを聞いた子どもたちは、多かれ少なかれ、傷つかずにはいられなかったのではないかと思います。

2011-05-16

ブログ主は大人なので、どこかの誰かが何についてどう語ろうが、そんなことは他人としてはスルーするものだと知っているし、そうできている。
むしろ「トーマス」のような子供向けコンテンツに対しての自分の態度を表現せずにいられなかった若者の「子供」らしさを冷静に見てもいる。
でも同時に子供が傷つくことを気にしてもいる。実際には子供本人にとってもおそらく大したことではないだろうと知りつつ、それでも気にする。
これは過保護だろう。
ここで彼の心配する「子供」は、発言した若者がそうであるような「子供」とは異なっている。
前者は「息子/娘」son/daughterの意味で、後者は単に「未成熟」childhoodという意味だ。彼が心配している「子供」は、「息子」のことだ。
当たり前の話で申し訳ないが、つまり彼の心配は、要するに「息子の父親」としてのものだ。
子供がそんな言葉で本当に傷つくかはわからないし、傷ついたとしてもそう大したことではない。一定の影響があったにせよ、最終的には(成長過程において)自分で乗り越えていくべきものだ。
一般論としてはそうだし、なにより結果論としてそうだ。仮に24歳になって「あの時トーマスの悪口を言われたせいでオレの人生がおかしくなったんだよ」と言われても、いいから黙って仕事探せの一言で終わりだ。
だが「息子」はまだ2歳だ。結果に対する責任は長じて彼自身が取るだろう。では「今」は? 「今」は将来成長した彼の過去という意味しかないわけではない。
彼の「今」の責任はだれが取るだろう? 
私たちが権利とか責任とか(自由とか)を言うとき、それを引き受ける個人は自律/自立した存在だと暗黙に前提している。そうと意識しなくても、そうしてしまっている。
だがこの社会はそんな人だけで構成されているわけではない。
これを読んで、以前増田であったこんなエントリを思い出した。今回と同じようなことを考えたからだ(10か月前だ。オレって結構同じことをダラダラ考えてるタイプなのだな)

「ほら、こういうふうにね世間には差別があるの。苦しんでいる人がいるの。
あなたのことを大事に思うからこそ同じような辛い思いはさせたくない。
肉屋と鞄屋の人とは結婚して欲しくないという気持ちは変わらない。」
…そうきたか。
どうやら母自身には差別をする気持ちはないのだが
世間からの風当たりを考えてそのような人達と結婚して欲しくない、という考えだそうだ。
いや、差別を容認する姿勢こそ"差別"だと思うんだけど…。

「肉屋、鞄屋の人とは結婚して欲しくない」

ここで母が「差別的」であるのは、「娘の母」だからだ。
そして重要なのは、ここで母は、一人の「個人」としてなら差別を決して許容しないだろうが*1、それと「娘の母」として差別を容認する態度が共存していることだ。
多分それは「息子/娘」が社会的な権利や責任の体系によって守られていないと感じているからだ。
普通、自己の責任や権利は自分で負うものとされている。ではそれを(未だ)できない人はどうなる? この規範的な考え方に基づいていては、幼い「息子/娘」を守れない。
そう思えば、「父」や「母」は自分自身という「個人」の枠をはみ出して、幼い「息子/娘」に成り代わり、その権利や責任を果たそうとするだろう。
だが多分、これはフェアなやり方ではない。本来、自分の責任は自分で負うべきだからで、抗議したいなら2歳の息子自身が自らの責任で行うべきなのだ。これ以外のいかなる方法も、なにがしかの不公正をはらんでいる。
上記エントリで「父」が「息子」が傷つくことに過剰なまでに反応し、反発を招きそうなエントリまで上げてしまったのは、だから自身の(息子を代弁するという)行為の不当性の自覚の代償行為に見える。本当のことを言われ(たと思って)ファビョった状態である。
(最近では東の西行きが似ている。彼が「子供」のために過剰反応とも思える決断をしたとき、その"正当性"を周囲に強弁せずにはいられなかったのだろうと思う。そこに正当性など無いからこそ*2
実際ここら辺に無頓着な人(つまり「子の親」でない人)には、「父」も「母」も、1人の個人としてではなくそれ以上のものとして語っていると見える。単純にいえば「子」をダシにオレ1人に2票持たせろと主張していると見えるだろう。
(すでに「母の娘」ではない主体であると自己認識しているだろう増田娘による上エントリは、実はそのようなものだ。*3
だが実際には「親」たちは「2人いるのに2票無いじゃん」と言っているわけだ。
この「社会」の調和や公正は、理念的には主体性・責任能力のある個人だけによって/彼らのためだけにあるように見える。だが現実にはそうでない存在がいる。
しょせん親と子といえど他人である。何が子の本当に望ましいことなのか、親にだってわかるわけがない。過剰に「安全」寄りになるのはある意味仕方がない。もっともらしいことを言う外野も所詮責任を取ってくれるわけではないからだ。「親」が個別的に考えるしかない。
そしてそれは、他人の存在の責任を負うとはどういうことなのか? と考えることだ。
おそらく答えの無いこの問に面して「畏れ」を感じること無しに、社会における「責任」など考えたことにならないようにも思う。
(だから東はじめ、福島原発の件で疎開していく「親」を個人的には笑えない)
責任の能力のない存在の責任をどうするか、子供は1票か0票か、投票権を行使するのは誰か? に社会的な(強い)合意がないように思う。それは「親」ではない人にはどうでもいいことだからだろう。
この関心を引かない問題は結局先送りされ、それどころか、子供はみんな大人になるのだから「子供というものは存在しない」と言って済ませているかのよう、、、、まあ実際この国は子供が存在しなくなってきているのだが。
そして(他人の責任を負うことも含む)「責任」を考える機会もまたなくなってきているわけだ。

*1:母のプロフィールを見れば十分考えられることだ。

*2:結局「オマエが怖いから逃げたんだろ子供をダシにするな」と言われる。行為の責任は個人が負うべきものとの規範を一歩も出ずに。

*3:あれは娘の母からの自立の話だよ。以前書いた->http://d.hatena.ne.jp/Domino-R/20100907/1283852045

それは「自由」として語って良いものではない

呼ばれたので。
ブコメにお返事とか:革命的非モテ同盟跡地
少なくとも「規制派」とされる人たちの一部は、このエントリにあるような「反対派」の無責任さにいらだっているのだと思う。
同エントリのブコメにあったものだけど、これがある意味典型的だと思う。

id:unorthodox 私も手慰み程度にはエッチな漫画を読んだりするけれど、その度にどこかの誰かに対して「不当な人権侵害」を犯していることになるのだろうか。意味が分からない

この種の勘違い、あるいは非社会性は良く見られる。
今回の規制は個人の「内心の自由」を規制するものでは全く無いし、(エロ、ロリとかの)私的な嗜好や楽しみ自体が社会的に問題であるなどと言っている「規制派」なるものもそうはいないと思う。*1
今回の規制は、エロを売ったり買ったり楽しんだりすること自体を全く規制していない。極端にいえば「表現の自由」なども特に規制していない。ただ場所を選べと言っているだけだ。
無論それも、好きな「場所」で表現する自由を侵していると言えるが、それは左側通行を定めた道交法を、ドライバーの「表現の自由」の侵害だと言うようなものだ。
確かにそういう言い分は可能だと思うが、そういうレベルの話をしているのではないだろうと前提して続ける。

現に流通していることの意味

この件に関して基本的に問題になっているのは、それがどのように社会的に流通しているか、ということで、規制をかけようとしているのもそこだろう。
たとえば少女を性的な対象として扱うような漫画は、それ自体が問題なのではなく*2、それがどのように流通しているのかが問題。
それが市場に流通しているという事実は、その表現内容が市場に肯定されているということ、社会的に容認されたものであること、を意味しかねないからだ。
何かを表現するという行為自体は常に肯定されるだろうが、その内容に関しては、社会的に擁護できないということはあり得る。
しかしそれが(たとえば単なる商品であるという名目で)大手を振って店頭に並ぶとき、そのこと自体が発するメッセージについては誰が責任を持ってコントロールする? 多くの「規制派」の問題意識はたぶんそこにある。繰り返すが、表現内容自体がではなく、その表現内容が表だって流通しているという事実
が持ってしまうメッセージについてだ。
それが市場に受け入れられ日常的に露出するという事態は、たとえばロリを「陳腐化」するだろう。「日常化」といってもいい。
少女が性的欲望の対象物としてのみ表象されるようなビジュアルイメージ*3が「日常化」することによる「被害」とは何であるのか? はここでは問わない。全く問題ない、と考える人もいるだろうが話が合わなそうなので突っ込まない。

暴力をもって表現すべきは暴力の結果の悲惨さなのかもしれない。:横路的横道徒然日記。
(すでに見れない。(オレだけ?)し、本人も撤回?してる主張なので批判ではない。ただ「責任主体」についての考察であるので例示する。)
その作品がそのいかに反ロリ・反暴力のメッセージを持っていようが、そんなことに意味はない。断片的なビジュアルイメージは文脈とは無関係に存在しうるからだ。*4
つまり、それが市場において結果的に何を意味してしまうかは作者がどうこうできる問題ではないし、する必要もない。実際「規制」は作者に何も求めていない(自主規制など愚の骨頂である)。

メタメッセージ

同様のことは暴力表現にも言えるはずで、わかりやすいので取り上げる。
たとえばテレビや小説・漫画では毎週のように人がむごたらしく殺されている。一定のコードはあるだろうが、まあやりたい放題である。
にもかかわらず、たとえば殺人の表現が(ロリと比べ)問題にならないのは、すでに殺人という行為自体が(現実において)明確に違法であるからだ。
作者が作中でどのように表現しようと、殺人は社会的に容認されない行為である、とのメッセージが法によってすでにメッセージされている。
つまり刑法が、殺人表現に対する"メタメッセージ"になっている。殺人に無反省な主人公だったとしても、それは肯定されない行為なのだという認識は社会的に共有されている。繰り返すが、これは社会的常識などというものではなく、ある主体による明確な社会的メッセージとして存在している。
一方で、今回問題視されるような表現については?
性的な行為であれば、それが私的な領域における私的なものである、との言い分は常に可能だ。
仮にそれがいちじるしく社会通念上許容しがたい行為であるとしても、また(性)差別的でもあるとしても、現在それらは法的に明確な禁止はなされておらず、個別的にも、それらが混在した行為であっても、合法的である。
私見だが、私的な性的ファンタジーにおいて性的対象は単にモノとして見られ、扱われている。それは(少なくとも男には)ままあることではないかと思うが、それがそのまま表現されれば普通に差別表現である。
異論はあろうが、個人的にはこの差別的表現がなされることまでは許容していいと思う。
ただ、それを容認しないとの"メタメッセージ"も社会的に要請されるだろうと思う。個人の内面のおける自由と、社会的な表現の自由を単純に同一視できない。社会的に容認できないことがらというのはあるからだ。
そしてそれは作者の仕事ではない。では誰が?
「反対派」にはこの視点が欠落しすぎている。この空白に行政が入り込んでいる。

見たいなら見れば?

それが社会的に擁護され得ない行為である、と誰かがメッセージする必要がある。
ゾーニングはその分かりやすい方法だろう。
たとえば「隠す」という行為は、それ自体がメッセージである。その場合、何としても凌辱モノを見たい中学生が年齢を偽りペアレントフィルタを回避しそこにアクセスすることには特に問題はない。
アクセスを禁止することは目的ではないし、意味もない。個人の嗜好を禁止することなど法的にも現実的にもできないからだ。
ただ「隠されている」というメッセージに触れればそれで十分である。それは必ずしも社会的に擁護されないものであると知るだろう。「規制」が発するメッセージとはそれであって、禁止ではない。

「健全な成長」

それが自治体によるものであることが必要だとは到底思えないが、それでもなんらかの規制=メッセージは必要であると考える。
それが社会的に容認された行為であるかどうかは、個人の他者への振る舞いには明らかに影響するからだ。
普通に奴隷がいるような環境で育てば、奴隷制に心を痛めることもない。それを差別主義と単にいえるかは微妙だが、しかし被害者がいないわけでもない。
普通に日常的に目にするものに(それが他者の目からどれほど異様に見えようが)疑問を見出すことは難しい。木につるされた黒人奴隷もそれが日常の光景なら単に「奇妙な果実」にすぎない。
人々の(複数形注意!)自由のために、何かの方法で「奴隷の存在しない光景」を見る必要がある。
何故規制され、隠されねばならないか? 
禁止=個人の自由を制限するためではなく、隠されて初めて見えるものがあるからだ。
人は単に自由なわけではない。社会生活を送るなら社会において自由であるべきであって、死にゆく奴隷が「果実」でなく自分と同じ「人間」であると気づくことは、そこに「他者」を見出す=「社会」を見出すことであり、それこそが「青少年の健全な成長」とされるものだ。*5それは個人の自由を損なうことだろうか?
他者を見出すことを幼児的な全能感が奪われる事だと感じる人がいるのは理解できるが*6、申し訳ないが取り合えない。それは「自由」として語って良いものではない。

おわり

いい加減長くなってきて疲れた。ここまで読んだ人もご苦労様。
そう考えれば、次に問題になるのが(つまり今問題であるのが)、誰がそのメッセージを発するのか? であるのは当然で、今回のような事態ですよ。
問題視すべきは「どのような規制か」ではなく「誰が規制の責任主体であるべきか」ということで、そのような問題意識から該当ブログ/エントリは逃げ続けているように見える。

*1:しかし「反対派」が攻撃するのはそのような(どこにいるのか定かでない)人たちだったりするんだよね

*2:今時、その内容自体をどうこうしようなどという時代錯誤的な人物などいない(少なくとも表向きはね)。誰が何を思い何を表現しようが、それを禁じる正当な方法などない。

*3:たぶん小説と漫画の一番の違いは、この流通イメージの差異。「映像には映像喚起力がない」と村上龍は言ったが、ビジュアルは受け手に解釈の余地なく有無を言わさずにダイレクトに届く。

*4:ここも小説との大きな違いだろう。

*5:無論、伝統的、規範的な異性愛のみを「正常」「健全」であるとするようなバカもいるわけだが。

*6:この規制は成人を対象としていない。

掛け算を「掛ける」と表現したバカは誰だ?

さてこんなことを書いていたのだが、界隈ではすっかり忘れ去られたこの話題も、自分の子供がまだ九九の学習中であるため個人的には継続している。
後続のエントリの最後に、ウチの子の先生は、掛ける数と掛けられる数を逆に書いた場合は採点を留保するとしていたが、これは毎日やるミニテストにおいてだったらしく、この前のちゃんとしたテスト?(日本標準社のいわゆる業者テスト)でウチの子がこれをやらかしたら、思いっきりXが付いてきたw
ウチの子は幸いに、すでに乗算における可換性について「腑に落ちている」状態なので、算数的には自分は正解であることを知っており(先生にもそう言われたのではないかな?)、大してショックも受けていない。
掛ける数と掛けられる数という区分け、その扱い方についてもわかっているので、不正解とされた理由もわかっている。
だが「分かっている」にも関わらず間違えるのは、要するにそれが分かりにくいからだ。
「掛ける数」とか「掛けられる数」とか、かなり抽象的というか小学生には分かりにくい表現ということだ。つか大人にも馴染みにくい。
つーことで、この週末にこの件ついてちょっと話してみるために、どのような説明であれば小学生にも簡単に両者を弁別できるか考えてみる。
(無論彼にとってもはやこれは便宜的なものだ。受験テクニック程度の意味しかないだろうが)
結論から言えば簡単な話だ。
「掛ける数」とか日常的・実感的でない言葉を使うのが悪いのであって、掛け算とは

○が△個ある。だから全部で□

と表現すればいいだけの話だ。
重要なのは文章から主語「○が」を見出すことだ。
例えば1そうに9人乗っているボートが8そうある場合、

9の集まりが8個ある、

わけだ。それ以外に表現のしようがない。どのように解釈したところで、主語=主体となる「まとまり」は9人でしかない。*1
だからこの文章題を式に書きなおすと

9 X 8 = 72

でしかあり得ない。そう文章が指示しているわけだ。
にもかかわらず子供が引っかかるのは、結局は「掛ける」という語そのものの問題であるように思う。
例えば英語なら掛けるは"times" で、文字通り「○が△回」の意味だ。
だが「七掛け」という用法があるように、「掛ける」という語はそれ自体すでに関数的な意味を持っている。直観的でないというか、内部の作用が直接見えない語だ。
1に3を足す、だったら何が起こるのか誰でもわかる。
だが2に5を掛けるという時、どのような作用が起こっているのか日本語として明瞭でない。
おそらくこの用法における「掛ける」という語自体が算数/数学規則の記号化だ(概念が先に輸入されたのかな?)。それ自体意味内容がないと言ってもいい。
例えばtimesのような語であれば「9を8回(足す)」となる。掛け算とは結局足し算が繰り返されたものなのだということや、何が起こっているのか、が理解しやすい。理解してしまえば、項順が入れ替わるなどということは起こらない。
だから多分この手の問題は、「掛ける」という用語をもっと直観的なものに置き換えればそもそも起こらない。
文章中における主語/主体にある作用が起こっている、それを記述することが式を立てるということだからだ。だが「掛ける」という語の持つ作用が分かりにくく、どこまでが主語で何が目的語なのか分かりにくくなっている。
一連の問題は、文章を多様に解釈できるなどということが原因ではなく、「掛ける」という日本語の持つ「作用」が明瞭でないため、それを各人で勝手に解釈しているらしいという現状が原因だったと言っていい。
以下のトラバをくれた人のコメントにそれが端的に表れている。「掛ける」の解釈が幅広く、そのため主語/主体を同定できずに「2通りの解釈」が可能になってしまっている。

既に色々な人が指摘していることですが、「日本語の語順」を基準にしてさえ、「リンゴ5個を入れる操作を3枚の皿に対して行う」「3枚の皿それぞれにリンゴを入れる操作を5回繰り返す」と、この問題は2通りの解釈が可能です。

では子供に何と言う? 要するに「掛ける」とはtimesなのだと言えば十分で、それで今後同じ間違いをしなくなるだろう。

おまけ

そして本当に重要なのが、この主語=主体は「普遍性」というか「同一性」を持つものであるということだ。
例えば100円玉が3つなら

100 X 3 = 300

だが、100円玉2つと10円玉1つでは同じような乗算式は成り立たない。100円玉と10円玉は同一でないからだ。だからこれらをいっしょくたに「主語」としてまとめるわけにはいかない。
同一のものだけが、その同一性ゆえに、単一の主語/主体となる。
文章において、主語/主体の同一性を見出し、追跡する必要がある。
その文章において、何が一貫した自己同一性を持った「主体」であるのか、「彼」に何が起こっているのか、文章を読み解くとはそういうことで、それは文学でも論文でも算数の文章問題でも変わらない。
それが「論理的である」ということだからだ。

*1:無論、「8そうそれぞれに一人づつ乗る」を9回、とすれば8が主語/主体になる。だが、ひとつの文章から複数の異なる主語/主体を見出してしまう=主語を同定できないこと自体が問題であり、それは文章の読解能力の問題である可能性がある。ただこの件に関しては後述するように「掛ける」なる語のあいまいさの問題であると考える。

断絶を飛び越える

id:Sokalianさん、コメントありがとうございます。返答したかったのですが、長くなったのでエントリにしてトラバします(なので丁寧語)
これは反論といったものではないです。むしろ関心領域が異なっているということを再度言うためのものです。
少なくともこの事例の場合(今の子は算数の文章問題が弱いという意識が背景にあると考えています)、先生の目的は、日本語文を読解し、その答えを算出する手法なり方法論を組み立てることであると考えています。
何がいくつ何人分あるので答えは。。。というふうにです。乗算の適用もそこで発見されるでしょう。
誰かが、要するに数字の後ろに単位とかを添えればいいんじゃね? と言ってましたが、

3個 X 5人 

これは日本語です。この時点では数式ではないと考えます。なんならXを"掛ける"と書いてもいいですが、要するに交換不能な条件が付帯しています。日本語だからです。
先生方が乗算を使う文章問題に関して「教えて」いるのはこのことであると考えます。算数的規則はこの後です。
ならば以下はどうでしょう

5人 X 3個

これ自体として間違いではありません。問題は、これが元の問題文の解析の結果出てきたものであるかどうかです。

1.日本語文の問題があり、
2.それを意味体系を保ったまま数式に置換可能な表現に並べ替え
3.数式に置換する

のようなプロセスを踏むとして、私が問題視しているのは(そしてそもそもの先生の問題意識も)1.から2.への移行の場です。
というより、語の記述順などここ以外で問題になりようがありません。
それは単純にいえば「てにをは」をどう解釈し、主語、述語、目的語を正しく把握できるかということです。
例えば以下の2例で、語/数字の出現順が入れ替わっているのではありません。主語/主格が入れ替わっているのす。だからこれに基づく2.も入れ替わった表現になるでしょうし、それに単純に基づく数式でも入れ替わるでしょう。それは可換性とは関係のない話です。

既に色々な人が指摘していることですが、「日本語の語順」を基準にしてさえ、「リンゴ5個を入れる操作を3枚の皿に対して行う」「3枚の皿それぞれにリンゴを入れる操作を5回繰り返す」と、この問題は2通りの解釈が可能です。

解釈以前に「問題文」は一意に与えられています。
大切なのはこの両者を正確に弁別すること、語の出現順は主語/目的語/述語の並び順とは関係がないのだ、ということです。語の出現順は"何を言っているか"を決めません。
文において「意味」は、語の出現順により構成されるのではなく、文法構造により構成されます。
そして掛ける数と掛けられる数は(主語と目的語がそうであるように)明確に別の概念であり、この理解抜きに日本語を正しく理解できません。
主語と目的語を取り違えて理解したとしても、乗算であれば結果的に正しい式になるでしょう。しかしそれは単に数学規則の事情です。たとえば除算では通りません。そもそも元の日本語を正しく把握していないのだから当然です。

教えることと学ぶこと

ここが正しく理解できているなら、最終的に得られる式が3x5だろうが5x3だろうがどうでもいいことです。
でも引き算の文章問題を、日本語を正しく理解せず、単に(小学生レベルの)算数規則に基づき"要するに大きい数から小さい数を引くしかできないよね"という理解で式を立てるようなことが起こり得るわけです。引く数、引かれる数の概念を文章から正しく析出できないからです。
それでも正しい式を書けば○です。それで終わり? それが数学的思考? 「教える」っていったい何?
いかように異なる解釈・表現が可能だろうが問題文は現に決まった形でそこにあり、そこにおいて掛けられる数・掛ける数は決まっています。主語が決まっているからです。
そこからベタに、日本語の主語-述語構造に基づいて2.的な"式"を組みたて、それを数式に単純置換する、というような方法は、数学に通じた人にはエレガントでないと見えるでしょう。
まるで日本人の喋る英語のように聞こえるかも知れません。
しかし忘れていけないのは、子供らは今「乗算という概念そのもの」を学んでいるのだということです。教師が教えているのは、そこにおけるテクニカルな方法論ではなく、乗算とは何か、そこに至るにはどうすべきか、ということです。
個人的にこの問題を面白いと思い、それなりに考えてみたりもしたのは、自分の子供がまさに今掛け算を習っており、九九の暗記中である事情があります。
算数という抽象的で非実感的な概念に、具体的な事物に直接結びついた日本語世界から飛び移ることが、特定の定型的な手続きを踏むことで可能なのだ。小学二年生の先生が教えなければならないことはそれで、数学的な真理やら何やらはその後です。
すでにそれがわかってしまった人には、何に困っているか見えないものです。
わかったと思う人は、ベタなエレガントでない硬直した手続きを軽蔑し、事物の真理・真相・深淵を語りたがります。あたかも自分が完全に独力でそこを発見し、到達したかのように。
実際、誰も自分は他人のチカラも借りずに大人になったと考えてしまいます。そのためにどのようなプロセスを踏んだかなど、忘れてしまうものです。
忘れてしまうから、先生も悩むわけです。自分はどうやって日本語を掛け算にすることを憶えたのだろう?
そして今、そろそろ子供に掛け算を教えるだろう私自身が悩んでいるわけです。自分はどうやって憶えたのか憶えていないからです。
一挙に数学的真理に目覚めたのだったか? 掛ける数とかけられる数を地道に追って行ってたか? 反復練習で問題文のパターンを覚えただけか? あるいは本当は自分は掛け算など未だ分かっていないのではないか?
日本語文法体系と数学規則との間は地続きでなく、断絶があります。それは子供たちが苦手とするのを見ればわかります。(ただの計算問題ならできるんですよね)
いかにしてこの断絶を飛び越えるか?
日本語の構文解析を元に、ベタに式を立てる。最初の一歩としては悪くないと思います。
最初に踏み出す一歩目は、それ以降のどの一歩とも違っています。"それ以降"の視点で語るには限界があります。語るなら、最初の地点に戻って語るべきです。

どれだけ理屈を捏ねようが、そもそも数学的観点から見れば「3×5」「3・5」「35×」「三掛ける五」「5×3」は全て同じものです

この問題、先生が悩んだ理由は、そこから考えなければほとんど意味がないと思います。数学の側から、そのロジックで考えはいけない問題と思います。まだそこに辿り着いておらず、どうすればそこに至れるか、という問題だからです。

おまけ

個人的には、日本語と数学の間の論理的な架橋は結局不可能だろうと思います。異なる文法を持つからで、結局どこかで子供が数学的思考に"目覚める"のだと思います。
結局教えることはできず「飛び越え」なければならない。このジャンプのために大人が何をしてやれるかは誰にもわかっておらず、各人・各教師のポリシーの問題になるだろうと思います。
重要なのは、私たちも"数学的観点"をゼロから体得する最適な方法などわかっていないと自覚することです。たとえ今できていてもです。
だから5X3と書いた子にXとするか○とするかは結論は出ないでしょう。どちらでもないからです。ウチの子の先生はそこだけ採点せずに留保します。あとで子供と見直すようです。