「クレールの膝」/それってオイラを誘ってるんじゃないの?

昔から映画が好きで、比較的幅広く観ていた方だとは思うが、それでも妙に縁の無い作品はある。
いや映画好き公言するならそれは観てるだろ普通、というような作品/監督をゴッソリ落としてたりする。


自分的には例えばエリック・ロメールがそうで、興味がなかった訳ではないのだが、これまで全く観てなかった。

だが最近あちこちでロメールの作品を上映しており、先日ついに観てきた。

 

クレールの膝」(仏 1970年) (ネタバレあり)

 

彼の6編の教訓モノのひとつだが、これが意外におもしろかった。

まず何といっても映像が美しい。スイス付近の避暑地だという風景が本当に美しく、それを見るだけでも幸せな気分になれる。
タイトルにもなっている少女クレールも魅力的。

 

主人公の中年男性ジェロームが、古くからの女友達オーロラを訪れこの避暑地にやってきて映画が始まる。
オーロラは小説家だがスランプ中。ジェロームに近くに避暑に来ている若い姉妹(共に10代)を「誘惑」するよう依頼する。小説のネタが欲しくて。

元外交官だというジェロームは見るからにモテ男で、恋愛関係における心理家を自認しており、この誘惑の実験に自信満々で乗る。
もっとも彼は結婚を控えた婚約者がおり、実際に「手を出す」つもりはない。

 

彼はまず妹のローラに対して誘惑を仕掛ける。
もともとローラはオトナの男性に興味があり(彼女の周囲には子供っぽい男しかいない) 、ジェロームの誘いに想像以上に積極的に乗って来る。
実際彼女はその気になるのだが、肝心のところでジェロームは身を引く。

 

次いで姉のクレール。
彼女の肢体は極めて魅力的で、ジェロームは特に彼女の膝に性的/フェティッシュな執着を持つ。彼自身の積極的な欲望が確かにあり、彼女の膝に直に触れる(彼女がそれを許す)ことを誘惑の目標にする。
(これが映画のタイトルの由来)

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ジェロームは言葉を巧みに操り、少女達の心を自在にもてあそぶ。
恋愛と女性心理に関する理解と洞察、繊細な駆け引き。ジェロームは誘惑の成功の一部始終を、オーロラに事細かに誇らしげに説明する。
それは彼なりの恋愛哲学の実践でもあったのだ。

 

。。。。ストーリーを表面的に追っていけばそのようなもので、普通の感覚ではかなり不快で嫌悪を感じさせるものだ。
そもそもこの姉妹はしょせん10代の少女で、手馴れのジェロームの敵ではない。
彼にもてあそばれた少女達の心は? その描写はほとんど無い。

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だが、この作品の面白いところは、このストーリーが完全にジェロームの主観に過ぎないということだ。
はっきり言えばすべて彼の妄想である。
要するに、そんな事は起こらなかったのだ。

 

おそらく客観的には、ローラもクレールも、ひょっとしたらオーロラさえも、ジェロームの存在などほとんど気にもかけていない。

 

ローラはそもそもオトナの男に興味があり、それを行動に移しただけだ。ジェロームの誘惑などなくてもだ。*1
クレールは最初から最後までボーイフレンドのことしか考えておらず、ジェロームに彼の悪口を聞かされている時でも、気にしているのはそのボーイフレンドのことだけだ。

ジェロームの誘惑は実在せず、したがってそれは彼女たちの心に何の変化も起こしていない。
 
ジェロームは自分の中だけで、彼女たちの表情や仕種、言葉や態度を都合よく解釈し、実際には起こってもいなかった「誘惑」「官能」を脳内でデッチあげ、それに酔っている。
ほとんど「どぶろっく」の歌ネタそのものの世界と言っていい。

焼肉屋で会計してたら女の店員がお釣りと一緒に
サッパリするガムをそっと渡して来たんだ
もしかしてだけど
もしかしてだけど
サヨナラのキスを求めてるんじゃないの
https://www.uta-net.com/song/146755/


 ジェロームの手が膝に触れた時、クレールは単に「キモっ」としか思わなかっただろう。
作劇上はクライマックスシーンのようにドラマチックに官能的に演出されていたが、それは彼の脳内妄想である。


要するにロメールはこの男の愚かさを単に笑っている。突き放してはいないが、少なくとも「どぶろっく」のような、この種の愚かさへの無邪気な共感は無い。
「こうはなりたくないな」と言っているだけである。

 


解題

ここまでで作品の感想、批評は終わり。以下はさらなる構造分析とそれがもたらす結論である。
深読みのし過ぎかもしれないので話半分で。

 

ジェロームの妄想が彼の中で破綻せず維持されているのは、彼が実のところ「何もしていない」からだ。
現実には彼女たちはジェロームに無関心だが、彼が実際には「手を出さない」ことでその無関心が露呈しない。そして露呈しない限りにおいて彼の妄想の誘惑は成功しているのだ。
そして彼が何もしないのは婚約者のためだ。

 

作品中、彼の婚約者は写真の姿が示されるだけで不在である。
彼の脳内で嘘が破綻するのを防ぐ仕掛けに過ぎないこの婚約者は、本当に存在するのだろうか?


不在の婚約者、実在の婚約者

そもそもジェロームは、そんな素振りは見せないが、この避暑地にオーロラを口説きにきたのではないか。
婚約者の話も、若い姉妹の誘惑も、彼の脳内妄想というよりは、エキセントリックなオーロラの気を引くための、彼女が興味を持ちそうな「作り話」として語られてると思われる。


作中ジェロームがオーロラに饒舌に語ってみせたのは、彼女を喜ばせるための、不道徳すれすれの「物語」だ。
オーロラという女の趣味、嗜好、性格を理解していると、自分がオーロラに相応しい男だと示したのだ。
当然オーロラもそれをわかっている。彼の本当の目的も。

 

彼が「物語」を語り終えたあと、オーロラは全く唐突に、自分は結婚が決まっているとジェロームに打ち明ける。
そして物語を語ったジェロームの前に、オーロラの現実の婚約者が姿を表す!
この作品のユーモアの中心だ。

 

オーロラの婚約者という、一見して全く蛇足と思えるエピソードが唐突に挿入されている意味は、そう考えなければ説明出来ない。
ジェロームは、最初から最後まで、全くなにもわかっていなかったのだ。
オーロラに下心を見透かされ(クレールへの下司な欲望まで見透かされ)、からかわれただけである。

 

*1:そもそもこの妹がジェロームに興味がありそうというのが、オーロラの提案の発端である。誘惑以前にすでに彼女が興味を持っていたのだ。彼女の態度がエスカレートし手に負えなくなって、ジェロームはクレールに「乗り換え」ている。逃げたのだ。

ナショナリズムとサッカーとその結び付きの凡庸さ

セルフまとめはイタい事が多いが、これは良いまとめ。少なくともまとめ主(id:murishinai)の主張が非常によくわかる形で説得的にまとめられている。(これ、もう一週間ほど前の話なのね)
サッカーにおけるナショナリズムと“日本代表の敗北を喜ぶこと”の是非について - Togetter
ここにおいて一方の地下猫氏に関しては、その主張が体系的・網羅的にまとめられているかはわからない。なので彼の主張の評価は保留するしかないが、それでもいくつかどうしても看過できない発言があったので多少。

そのほか、これに関連する最近の気になった話題も。
日本代表(選手)の敗北を喜ぶことと、日本におけるナショナリズムを批判することの間には妥当な必然性があるか? という問いにはここでは踏み込まない。そんなものある訳がないからだ。
五輪やW杯のようなスポーツの世界大会が大抵はナショナル/ネーションと結びついているのは間違いのない事実で、それは単に国別対抗という体裁を取っているというだけでなく、それ以外の可能性を排除しているということに見てとれる。
W杯のそのような運営方針自体がナショナルを前提しており、その意味でナショナリズムとの結び付きは不可避と言ってもいい。
しかしそれはFIFAの(体質の)問題であって、サッカー/スポーツの問題ではない。誰でもそんなことなどわかっているというような顔をするが、実際にわかってるかは怪しい。
サッカーは(たとえば「個人」がそうであるように)、それ自体としてはナショナルを超える可能性を持っている。現にナショナルなものとの結び付きの中で存在しているにせよ、それがサッカーの(あるいは「個人」の)全てではない。それはナショナルと全的に不可分に結びついているわけではない。ましてナショナルなものがまずあって、それによって初めて存在しているようなものではない。
だがそのように語る者はいる。それは「ナショナリズム」と呼ばれる語りで、国民は国家があって初めて存在する、あるいは国民と国家の結びつきの必然、運命、自然性を、さらにその特権性を言い立てる。
それは誰も本来的には「たまたまそこに在るすぎない」という事実が強力に否認される。
そのような語りには、よく知られたうんざりするような文句の他に、以下のようなものもある。

これはナショナリズム批判、およびナショナリズム的体質を持つFIFA/W杯批判として言われている。それは現状の認識として正しい。
そしてそれは「現実」であるが故に「前提」だという。
ここに詐述が滑り込んでいる。それはスポーツとナショナリズムの宿命的な結び付きを捏造するものだ。
端的に言えば、上記ツイートのスポーツ/サッカーを「個人」とでも置き換えて読めばいい。ナショナリストが泣いて喜ぶロジックになる。
スポーツには(「個人」には)ナショナルを超える可能性があるが、それがここでは強力に否認されている。彼は別のツィートでその種の「可能性」に余地を残しているかのようにも見えたが、ここでトータルに否認されている。それは単に言葉にすぎなかったのだ。
言葉ではなく、既にある「事実」こそが特権的に「宿命」を証し立てていると語っている。批判的文脈であるかは問題ではない。
ナショナリズムは、その単純な批判者と共犯的・相互補完的に自己を形成していくからだ。
それ以外に面白かったのが以下と、そのブコメ
ゲームに登場する女性キャラはいかにして性の対象として描かれているか? - GIGAZINE
この、単にゲームにおける女性記号の取り扱われ方(消費のされ方)を示したものだが、ジェンダーフリー、あるいはポリティカルコレクトネスへと反射的に結び付けられて理解されている。
まあこの手の分析や主張は告発調になるのが普通なので、告発されたと感じがちな側がうろたえるのは当然なのだが、ここでは特に何かが告発されてるわけではない。改善が要求されているわけでもない。
単に事例が列挙され、その意味が解かれているだけだ。
そこで現に何が表象されているのか、その啓蒙が目的の動画/エントリと言っていい。
その表象の意味・意図が解けないと、そこにあるものは現にそこにあるという理由で「自然」で「必然」であり「正当」であると理解されるからだ。そのような不用意さ・思慮の無さに対して、単に批判的であることは時には逆効果である。
あとこれ。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/191681.html
アレントはたぶん保守的な人物だが、そうであっても全体主義を拒むことは可能で、それはナショナルな表象に超越性を、なにか不思議な力があると認めないことだ。
ナショナル/ネーションに自己を投影・従属することは近代社会においてありふれており、そしてその深さのない陳腐さ・凡庸さこそが偏在する悪だと言っている。この表層しかない悪にわかりやすい批判を対置することはできない。それもまた凡庸さだからだ。

 アーレントはそうした悪に抵抗しうる可能性として、思考すること、考えることを追究します。「ものごとの表面に心を奪われないで、立ち止まり、考え始める」ことを彼女は重視しました。

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/191681.html

最後に
当初ザッケローニの日本代表メンバーだった李忠成は元在日韓国人で、過去に日本(五輪)代表になるために日本国籍を取得している。無論彼が単に「李忠成」としてサッカーを続けることを阻むのはFIFAの都合であり、彼が日本国籍を取得したとしてもそれはナショナリズムへの従属でもなければ加担でもない。
むしろそう見るのは、ナショナリズムに何か超越的な力を見ようとする者だ。このナショナルなものへの鈍感さ・凡庸さこそ批判されなければならない。
それは李忠成という「個人」を「李忠成」としては見ず、単に日本人/韓国人としてのみ見るような態度だ。これがナショナリズムでなくてなんだろう。
だがその問題は、それこそがナショナリズムへの加担であるというよりも、現にブラジルに在るナショナルを超え得るかもしれない「個人」や「サッカー」の「可能性」を粗雑な二分法で塗りつぶしてしまうことの方だ。
『そんな「可能性」など、「現実」の前では言葉にすぎない。』
このありふれた詐術は、そもそもナショナリズムこそ言葉によって語られているにすぎないということを、むしろ「個人」や「サッカー」こそ言葉以前に存在しているということを、発話者自身にさえ忘れさせる。

クリミアにおける19世紀と21世紀(の悪魔合体)

ウクライナでのゴタゴタにロシア(以下プーチン)が首を突っ込んでいる。
特にプーチンウクライナのクリミア地域における「ロシア系住民の安全」のためと称して、同地にロシア軍を展開・駐留させるというやり方には、多くの人がヒトラーを想起したとしても無理はない。

ウクライナのハルチェンコ大使は2日、都内でNHKのインタビューに応じました。
この中でハルチェンコ大使は、ロシアが、ウクライナのロシア系住民とロシアの国益を守る権利だとして、軍事介入の構えを見せていることについて、「ウクライナで今起こっていることは、1930年代にナチスドイツが自国民の保護を名目に各国に侵攻した状況と似ている。国際秩序への大きな挑戦だ」と述べ、ロシアの対応を厳しく非難しました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140302/t10015649911000.html

さて当時、このドイツの行動に対するイギリス・フランスなどの当初の対応が「弱腰」だったとの評価が定着している。
同様に今回のプーチンの行為に対してアメリカ/オバマの対応が「弱腰」と見る向きもあるようだ。オバマは就任以来、外交下手との評価があり、特に日本人的には中国に対する「弱腰」を指摘する人たちも多い。
だが本エントリは現今の緊迫するウクライナ情勢について考えるものではない。一連の情勢を見ていて、現在個人的に悩んでいる小学生の社会科を思い出したのでそれについてだ。この出来事は、ベルサイユ体制あたりと日本の膨張政策のかかわりの説明に使えそうに感じた。受験には最近の出来事も出る。

20世紀的秩序の始まり

ウチの子は社会科が苦手だ。いまは日本史に苦戦しているが、要するに単純な暗記が苦手らしい。歴史的事件と年号を個別的にただ無意味に記憶していくということができない。
こういう子は男子に多く、対応としては全体の流れを把握させ、個別事例を全体の中で意味を持つ事柄として位置づける、というのがセオリーだ。
ということで、三国干渉とか国際連盟とか対日石油禁輸とかを、こうだからこうなった、こうしたからこうなった、的に説明するといい。関連が明らかになれば、個別事例は芋づる式に把握することができる。
ええ自分用まとめですよ。間違ってたら茶々入れてくれ。あくまで小学生/中学受験レベルの社会科だ。慰安婦は出てこないぞw。
20世紀に入って科学技術が発展し、戦争で大量の人間が死ぬようになった。
1904年の日露戦争での与謝野晶子の例の詩もこれを受けてのものだ。
一方欧州では1914年に20世紀最初の大きな戦争、第一次世界大戦が起こっており、これでとんでもなく人が死んだ。
これを受けて、とりあえず戦争はもうしない方がいいということになり国際連盟を作った。
第一次世界大戦オーストリアの皇太子が殺されたっつーちいせぇ事(by息子)で大戦争が起こっており、今後は些細なことで戦争が始まらないように、なんか起こったらすぐ戦争せずにまず話し合いましょうとした。
その時の決め事が、
イザコザが起こったら国際会議の場で話し合いましょう
こじれたら他の国が事実関係を調査し、悪い方にやめるよう注意します
それを無視したら、他の国が協力して経済制裁をします
というもので、このステップは現在の国際連合でも踏襲されている。たとえば2014年現在、北朝鮮経済制裁を受けており、またシリアには国連調査団が入っている。
またこのステップが最初に適用されたのが1931年満州事変(〜日中戦争)で、日本はいろいろ言い訳をしたが結局調査団に日本が悪いと言われ、国際連盟の決議を拒否して脱退したら誰も石油を売ってくれなくなった。
困った日本は石油を奪うしかないと考え、一番近い産油地域東南アジアに攻め込む事にしたが、そこには米軍がいるので必然的にアメリカと戦争することになったのが1941年。

さてウクライナ

この小学生的歴史観によると、戦争を当事者同士の問題としてではなく、多くの第三国が関与しつつコントロールしていこうとする発想はこの時はじめて生まれたもので、いわば20世紀的な国際秩序の発想だと言っていい。20世紀の戦争テクノロジーがもたらす危険性の認識が根底にあるからだ。
一方、当時のドイツと日本はこの20世紀的な秩序維持の発想が持ててない。結局、単に自分が攻め込んだ国だけでなく、世界中を敵に回すことになる。
ヒトラーオーストリアに攻め込んだ時、当初各国が実力行使に出なかったのはあくまでもこの新しいステップを踏むためだったが、その発想のないヒトラーには単に「弱腰」と見えた。
恐らく今オバマも、プーチンに対してこのステップを踏もうとしているので、それを「弱腰」と見るのは19世紀的な国際秩序理解だ。この次には国連調査団がウクライナに入り、何らかの裁定が行われるだろうし、経済制裁になるかもしれない。
今はむしろ国連における名分をおさえなかったブッシュの2003年イラク戦争こそ国際秩序の無視だったと評価されており、オバマはそれを避けたいはずだ。

*

さて大人の話だが、実際のところプーチンが19世紀的な頭の持ち主である可能性は否定できない。その時ロシアのような大国に対して最終的に何ができるのかは微妙だ。
それにプーチンの頭が何世紀だろうが現在は21世紀で、ロシア軍はそれにふさわしい形態をしている。

親ロシア派住民の多いウクライナ南部クリミア半島に2月末、突如出現し、空港などを占拠した謎の武装集団について、ロシア政府と契約関係にある民間軍事会社の要員であるとの見方が米国内の報道で出ている

http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2014030200244

これはもっぱら21世紀になって米国がやってることだ。民間軍事会社に作戦行動を委託することで国家の責任を逃れることができる。国家間戦争には国際条約に基づくルールがあるが、民間企業の作戦行動にはそれは及ばない。
アブグレイブでの捕虜の虐待・拷問はもっぱら民間企業が行っており、これほど非難されながら米国政府が知らん顔できるのはそれが国家とは関係ない企業活動だからだ。)
無論これはロシアの企業だって同じだ。
もはやプーチンは怖いもの無しだ。「国家間紛争」を念頭に置いた20世紀的な国際秩序のルールから大手を振って外れることができる。今は21世紀なのだ。

社会学者としての上野千鶴子の絶望

上野千鶴子がこんなことを言ってる。

「女子力を磨くより、稼ぐ力を身に付けなさい!」上野千鶴子さんが描く、働く女の未来予想図 - Woman type[ウーマンタイプ]|女の転職type

ある意味この人らしい物言いだと言っていい。ブコメを見ると、特に以下のような部分に違和感を持たれるようだ。

だから、現在20代や30代の若い女性たちも、ゆっくりまったりと生きていけばいいじゃないですか。成熟期の社会では、皆が髪を振り乱して働き、他人を蹴落としてまで成長していかなくてもいいんですから。賃金が上がらないといっても、外食せずに家で鍋をつついて、100円レンタルのDVDを見て、ユニクロを着ていれば、十分に生きて行けるし、幸せでしょう?

「女子力を磨くより、稼ぐ力を身に付けなさい!」上野千鶴子さんが描く、働く女の未来予想図 - Woman type[ウーマンタイプ]|女の転職type

同種の文言はもっといかがわしい連中によって、精神論というか自己啓発的・マインドコントロール的に語られることが多いからだ。
もっともこれはそう読むべきではないだろう。はっきり言えばこの部分は「あなたは300万円の年収なのだから、それにふさわしい楽しみで満足するより仕方ないのよ。それは自分に見合った程度の娯楽でしょ」と言っているだけだ。
だたこれを、たとえば一部の保守主義者にあるような「身分相応」という考え方と読むべきでもない。
単にそれぞれの「私」の現実において生きるしかない、といった程度の事を言っているだけだ。それは自分の「分」をわきまえろ、というようなことではない。もっと身も蓋もないことだ。

上野の絶望

例の「おひとりさま」以降の上野に対する批判は、おおむねそのようなものだ。
「老後おひとりさま」なんて、単にお花畑なスピリチュアルw幸福論か、そうでなければ上野自身のように社会的・経済的に高い「身分」にだけ可能なことで、多くの日本人に一般化して語れるものじゃない、的な。
「おひとりさま」以降、上野は基本的に自分自身についてしか語っていない。現にある自分の立場にのみ基づいて語っている。そこに生活保護すれすれのシングルマザーの老後など入ってこない。
多くの読者は彼女に「社会学者」を期待するが、彼女はもうそういう立場としては語っていない。

どういうことかといえば、彼女は現実にある人のライフサイクルを考える上で、もう社会制度や政治政策を全く考慮していないということだ。単に、その人の現に可能な生活を語っているだけ。

そこに社会学者らしい(政策)提言はない。
このエントリでも、現行の政策や制度の問題点を指摘はしているものの、是正を提言することはない。望ましい社会制度を構想することもない。

結局のところ、日本企業の多くはいまだに男社会のルールを変えず、「オレたちのルールに従えるなら、お前たちも仲間に入れてやってもいいぞ」と女性たちに言っているだけです。ただし、こうした差別型企業は、グローバルマーケットにおける企業間競争に負けるでしょう。

「女子力を磨くより、稼ぐ力を身に付けなさい!」上野千鶴子さんが描く、働く女の未来予想図 - Woman type[ウーマンタイプ]|女の転職type


彼女はもう徹頭徹尾、この国の行政や政策、制度や社会に絶望してるんだと思う。もうそれを変えようなんて思ってないし、変わるとも思ってない。
ただそこでいかに生き残るか、各自が自分の現実的な条件の中で生きる方法を考える必要があるとだけ言ってる。ここには(社会変革への)意思も期待もない。
もう大文字の社会などない。彼女がもはや右翼でも左翼でもないのはこのような場においてだ。
身分や社会階級の自覚が自分の助けになるなどカケラも考えていない。それは制度的・政策的な変革についても同じだ。
社会保障が充実すれば、マクロ経済状況が上向けば、、、しかしそれが「おんな」を助けるなどと信じていない。
ここで彼女は右でも左でもなく(無論真ん中などでもなく)、単に孤独だ。
(かろうじて思想家としての彼女は「女縁」なる連帯概念を言うが、これを社会学的に見るべきではない。)

日本の老後

上野が齢をとったということかもしれない。
いずれにせよもう時間が無いのだ。自分が生きている間には、望ましい「社会」などやってこない。
この変わらなかった社会の中で、現実的条件の中で老後を生きるしかない。
だが彼女の絶望は多分もう少し深い。

「もう時間がない」のは60を超えた上野千鶴子だけではないからだ。
彼女がいまだ社会的発言をするのは、その聞き手(若い女性を想定しているだろう)もまた将来において上野と全く同じ絶望に直面するからだ。
社会がどのように変わろうと、彼女たちはいま上野が直面しているのと同じ絶望にやがて直面するだろう。何も変わらないからだ。
今年生まれた女の子の未来とは、すでに上野が経験した「変わらなかった過去」だ。彼女たちにとってすらもう、社会が変わるのを待つだけの「時間はない」。
だから基本的に、現に自分が手にしているものだけでその生涯を生きるしかない。だから全ての女性はたとえ300万でも独力で稼げるようになる必要がある。
そこに到達できなかった弱者は、上野にとってももうどうすることもできない。
それは思想でも学問でもなく運動によって社会とコミットしようとした人の結論だ。それは自己責任論とは違う。

「女子力を磨くより、自分に投資をして稼ぐ力をつけなさい」
これが私から若い女性たちに送る、これからの時代を生き抜くためのアドバイスです。

「女子力を磨くより、稼ぐ力を身に付けなさい!」上野千鶴子さんが描く、働く女の未来予想図 - Woman type[ウーマンタイプ]|女の転職type


おまけ
これは男というだけで一定の社会的信用があり、基本給が高い側にはわかりにくい部分はある。
ただ女性の地位の向上は今後も続くだろうが、一般に社会的な「女性の優遇」はカネを払える女性に対して行われてる。女にこそカネが必要なのだ。