映画「ベイビーブローカー」/子どものいない親たち

是枝監督の韓国映画「ベイビーブローカー」を見てきた。
評判通りのよい作品。長いが、個人的には全く長さを感じなかった。

 

主演のソン・ガンホはこれでカンヌの主演男優賞を獲っている。よい演技だったが、もっとも彼はいつも素晴らしく、この作品だけが特別という訳でもない。まあ賞はタイミングだということだろう。

 

しかし個人的には母親役のアイユ(IU/イ・ジウン)が非常に素晴らしいと感じた。アイドル歌手だが、ドラマにはたくさん出ている。映画は今回が初めて。
K-POPを10年以上聞いてきた身としては妙に感慨深い(以下イ・ジウンではなくアイユと表記w)。

 


10年前の死ぬほど可愛いアイユ

 

この作品についてはすでにいろんな事が言われているし、その価値のある作品だと思う。
だがここでは、そういうのとはちょっと違う感想になるかもしれない。

 

親、子

この作品の主要な人物を見ると、おおむね「親」と「子」であることがわかる。しかも普通ではない「親」と「子」だ。

 

この作品はもっぱら母子の問題、家族の問題を描いたものと理解され、実際そう見られるが、そういう観点で見ていくとこの作品は最後まで具体的な焦点を結ばないまま終わる。

 

家族とか親子とかより、むしろ「子」がおり、「親」がいる、という作品とみた方がいい。
出てくる「子」は、みな実の親が無い、捨てられた子だ。

 

そして「親」は3人。
子を捨てるアイユ、子に捨てられる?ソン・ガンホ、そして明示されないが子を持てないらしいペ・ドゥナ(先輩女刑事役)だ。

 

特に女刑事は、自分が子を産めないことが、産んだ子を捨てるアイユを追いつめる強い動機になっており、物語の推進力になっている。
事実上この作品はこの二人の女性のストーリーと言ってよく、それにソン・ガンホによる子供の闇売買が絡んでくる。
彼も別れた妻のもとに子供があり、その子供との面会時にもう会いたくないと告げられる。

 

そしてこの作品が最終的におさまりのいい終わりかたをしないのは、この3人の「親」の問題が最後までなにも解消しないからだ。
3人は「子の親になれない親」という不明瞭な立場に身を置いているが、それは最後まで変わらない。
最後になっても、彼らは「子の親」になれないのだ。
かといって彼らの「喪失」が描かれている訳でもない。この作品の着地点のわかりにくいところだ。

 

子はある意味で自足している。親に捨てられようが生きていく他なく、実際自力で生きていく。
だが親は?
ある意味で、親は「子の親」でしかありえない。子ども無しで親であることがないような存在だ。
そして誰も自然な成長の先に「親」なるものになる訳ではない。子を産めば自然に「親」になる訳でもない。

 

この作品はそんな「親になること」の見通しの悪さ、不自然さ、違和感がおそらく隠されたテーマで(監督がそれを意図しているという意味ではないが)、親になるために超えなければならないある断絶、親なるものが、単独では常に抱え込むことになる不安定さを描いているようにみえる。
3人の親はいずれも、子と適切な距離を持てず、どう扱っていいかわからない(女刑事ぺ・ドゥナに至っては、まるでベイビープローカーであるかのように振る舞う自分に気付く)。

 

そして親になる

作品を通して、「子への愛」「親子の絆」なるものが、その素朴な実在が試され、疑われている。親自身によってだ。
あってほしいと切実に願いながら、実はそんなものは(自分に)ないのではないかという怖れが、親自身によって抱かれている。
赤ちゃんボックスとそこへの子捨てという設定はそのための仕掛けだ。
(なのでストーリー構成上はこれはちょっと不自然でもある)

 

この同じ疑いは「子」によっても問われているが(捨て子だった青年役のカン・ドンウォンがまさに口にしている)、それに対して親は、たとえばアイユは、暗闇の中、表情を隠してしか愛情を語らない。
「子への愛」は影のようなものだ。それを見ることはできない。だから「見えない」ことによってこそむしろその場所に辿り着けるかもしれない。
親が少しづつそのように考え始めるのも、(血縁がなくても)「子」に問われることによってだ。
(何度かある「見えない」ことを象徴する場面で、アイユの表情の隠し方はいずれもとても見事で素晴らしい)

 

本作はロードムービー的側面を持つが、その度の途中、まるで旅の目的地のように、その場所の実在が「家族」全員に夢見られている。

 

「旅」が終わり、映画ラストでは親達は子をそれぞれの形で失うことになる。だがそれは愛情を失うことではなくなっている。
それぞれの「親」は、自分の内にのみ「子への愛」を抱え込む。それは現実の家族・親子という外形を伴う訳ではないが、この愛がある故に「親」である。
そして捨てられた子もまた、親に愛されなかったとは限らない。愛を見ることがなかったとしてもだ。

 

作品について

この作品は脚本にも是枝監督の名がクレジットされているが、どう考えても韓国側スタッフの手(アイデア)がかなり入っている。
特に話の「盛り方」が韓国ドラマ的で、ちょっと日本人には書けそうもない現地風俗が頻出するのも楽しい。台詞もカッコイイ。

これほど是枝映画でありながら、明らかに韓国映画でもあるのはそういう理由だろう。

 

また俳優たちの存在感はさすがという他ない。いい意味で曖昧なところがなく、フワッと演じていない。
みな自分が演じている人物を正しく理解している。


ストーリー的な不自然さは散見されるものの、俳優の力量とそれがもたらすドラマの厚みは迫力があり、最後まで一気に見ることができる。
特に後輩女刑事役イ・ジュヨンの一貫して健全な感覚は、見る者のストレスを低減して作品をとても見やすいものにしている。

 

 

カルトと信教の自由戦士

安倍元首相が襲撃されて約1ヶ月になる。
いろいろと展開していてなかなかに騒がしいw
ただ事件そのものに関して個人的に印象深いのは、容疑者の動機があくまで旧統一教会への恨みで、安倍元首相が狙われる直接的な動機が無いということだ。

 

本人の供述的にも、本当は(教団リーダーの)韓鶴子を狙っていたのだが無理なので、教団とつながりのある安倍元首相に狙いを変えている。
要するに、一国の首相まで勤めた人物が、単に他の誰かの代わりに撃たれている。

 

これは何というかマンガのような話だ。
多くのメディアが言うように容疑者の行動に飛躍がある。
彼は何を狙ったのか、何を撃とうとしたのか判然としないように見える。

 

個人の信教の自由

今やこの件は、容疑者が、自民党統一教会の関係を暴露するために行った、とみなされている。

だがそもそもの発端は、彼は統一教会との関係において「被害者」だったということだ。
自民党の存在など(つまり安倍晋三など)二の次のはずだ。

 

そして正確に言えば、彼を追い詰めた「加害者」は、実際のところ統一教会ではなく彼の母親である。
彼女の信教こそが家族の経済と生活を破壊している。
ある意味では、彼の家庭との関係において、統一教会は特に何か問題のある振る舞いをしているわけではない。
彼女の行動(教会への寄附・献金)はタガが外れていると感じるが、それでも彼女の主観的には彼女自身の自由意思によるものだろう。
それは洗脳のせいかもしれないが、責任能力を持つ大人に対して、他人が簡単に「洗脳されている」と決め付けられるものでもない。


不在の被害者

実際、福田議員はこんなことを言って、批判されている。

mainichi.jp

統一教会関係者による選挙応援に関しては「宗教・信教の自由を行使している方が応援してくれることが、旧統一教会から応援を受けることになるのかとの議論もある」と指摘。

 

この発言は顰蹙を買い、冷笑された後に忘れ去られたが、個人的には一連の事件報道中のエポックだと感じている。

 

山上容疑者が被害者でないのは、母親が加害者では無いからだ。
母親の振る舞いが加害で無いのは、それが「個人の信教の自由の行使」にすぎないとされるからだ。
福田議員の発言はこのロジックを下支えするものだ。


「自由戦士」たち

実際のところ、どこまでを信教の自由とし、どこからがカルトによる洗脳なのか、現実的には簡単に言えない。

 

だが議員が上で言ったことは、 そういう線引きが難しいなどという事ではない。
そして個人的には、この問題の本質はもっと別にあると感じる。自民党が問題になるのはそこにおいてだ。

 


山上容疑者は親の自由に押し潰されている。
教会も、信者も、その家族も、自由の観点からはその振る舞いに何も問題が無い。
いわば苦しむ者は自己責任で苦しんでいるだけだ。
彼の自己認識もそれに近いものだったろう。彼は自分の教団への恨みを不当なものと思っているはずだ。だからこそ彼は敢えて「不当な行動」へ踏み出せている。

 

これが犯行への心理プロセスだ。
だが、何かがおかしい。それは別に保守系与党と宗教団体の関係がどうという話では無い。

 

連中がうそぶく「個人の信教の自由」なるロジック、それで全てを処断しようとする態度こそが、この詐欺的な環境を準備し、彼を追い詰めている。
自らを被害者と認識できないような環境が存在している。苦痛は全て自分の責任であると受け入れる他ない状況が出来上がっている。だがそれは何者かに意図的に作られたものだ。

 

単に統一教会の繰り返す詐欺だけが悪なのではない。カルト宗教と癒着する政治が悪だというだけでもない。
ここにはもっと別の悪が存在している。
それは「自由」なる名を以って語られる底無しの悪意のようなもの
で、それが現実社会において政治権力的言説として存在している。

映画「犯された白衣」1967 /非モテとテロル

半端に時間が余ったので映画でも見ようと思ったのだが、どうしてもシンウルトラマンを見る気にならず逡巡してるうちに時間が押し、結局ウルトラマンを見れなくなった。
今からでも見れるのは、、、と探すと渋谷で若松孝二をやってるじゃんか。

 

「犯された白衣」1967年 若松孝二監督

いわゆるピンク映画で1時間程度と短い。
パートカラーの作品で、作中の重要なシーンだけカラーになる。
以下はこの作品の感想、批評というより、見たあとに考えたことだ。ネタバレもある。

 

主人公の若者(唐十郎)が嵐の夜、海沿いの看護師寮に迷い込み、若い看護師たちを意味もなく凌辱、殺戮するというストーリー。

 

嵐のため密室空間であるこの寮に、主人公を引き入れたのは看護師たち自身である。
彼女たちの動機はこの若い異性への(性的な)興味、好奇心で、それが惨劇の発端となってしまう。

当初は無口でおとなしそうだった主人公だが、寮内で一変する。
彼は拳銃を突きつけ、看護師を全て裸にした上で、 怯え抵抗し命乞いをする彼女らを一人ずつ無表情に殺していく。

 

プロットは一見するとポルノ映画として有りがちなものだと言っていい。
ただ主人公の猟奇的行動の動機が全く語られず、そのためポルノというよりほとんどサスペンスホラーである。
描写的にも、性的な凌辱よりも殺戮が強調されており、ポルノ要素はあまりない。
(ただしその残酷描写も、現在の水準から見ればおとなしいものである。)

 


この作品の意外なのは、この殺戮が、最後の一人を残して唐突に終わることだ。
この最後に残った看護師(夏純子) は、初めから怯えも抵抗もせず、最後に残されてからは主人公に親しげに話しかけさえする。
彼女のその親しげな語りかけと親密な視線が彼を無力化し、ついに彼はまるで胎児のように裸の彼女のひざ元に横たわる。

 

 

図像的にもこれは胎内回帰の表現だが、実は監督自身もそう言っている。
そういう意味ではわかりやすい結末であり、ありがちな男性ファンタジーだと言ってもいい。

 

だが個人的に思うのは、どうもこれは監督が言うような「胎内回帰」願望とは違うのではないかという事だ。

 

彼女は彼を恐れていないだけでなく、彼を「わかってくれる」存在として描かれる。そして彼女は全く母性的ではなく、むしろ幼なさが強調された少女である。


「何故? 何故そんなに血を流すの?」
「きみを飾るためさ」
「あたしを飾るのに、どうして他人の血を流すの? どうしてあんた自身の血を流さないの?」
「あたしを飾るなら、あんたのたったそれだけの血でいいのに」
「知らなかった。それであんなに見つめていたのか」
「お馬鹿さんね」

 

ここで睦言のように語られているのは何のことはない、フェミニズム的に言えば「ロマンチックラブ・イデオロギー」である。
吉本隆明的に言うなら「対幻想」であり、母親との同一化願望ではない。

 

要するに主人公にあるのは「胎内回帰願望」ではなく「承認欲求」と言っていい。
彼は異性による「承認」を求めていたのであり、そういう意味では今ふうなストーリーと見ることができる。

だがそれが何故大量殺戮のカタチをとるのか?

非モテとテロル

劇中、看護士はすべて裸である一方で、彼はずっと着衣である。
これは状況的に当然ではあるものの(彼に服を脱ぐよう命令されいてる)、図像的には不自然な対比で、彼が身体の露出を拒んでいる印象を与える。
彼は看護師たちの裸の身体を「見る」一方、自らの身体を「見られる」ことを拒んでいるように見えるのだ。

 

 

この作品において「見られる身体」とは性的な身体である。
(それは作品冒頭、二人の看護師による性行為が他の看護師に「覗かれる」ことで示されている。)

 

したがって彼が身体を「見られる」事を拒むのは「性的に見られる」事を拒むことであり、それは彼の性的な「自信の無さ」「役に立たなさ」を暗示していると言っていい。

 

そもそも彼がこの看護師寮に招き入れられたのは、彼女たちの「異性への好奇心」からだ。
だが彼はそれに応えられない。彼ができることは拳銃を振り回すことだけだ。

この「拳銃」は彼の性的な「不能」「自信の無さ」の喩/代償と思われるが、その結果起こるのは殺戮である。

 

彼が看護師達の中にこの無垢な彼女を見出すのは、彼女が彼を見るその視線によってだ。
彼が2人目の看護師を射殺したとき、彼女が彼を見つめていることに気付く。他の看護師とは違い、彼女だけは怯えていない。

 

「何故そんなに見るんだ。」
「何故見るんだ」

 

彼の殺人はこの時までに「性的な凌辱の失敗」を意味することが明らかである。彼女はそれを見ているのだ。

だがその彼女の視線は、彼への性的な期待も怯えもない。

彼の問う「何故見るのか」とは「何故自分を性的に見ないのか」という意味だ。主人公は彼女の視線の質を問題にしている。
彼女には「性的に見られる」ことがないと知った時、彼は殺戮をやめる。
彼女の膝に抱かれる彼は裸になっている。

 

 

これを彼の成熟の喪失と呼ぶべきかはわからない。
単にそう呼んでしまえば、胎内回帰とはいわないまでも、幼児退行として説明できるストーリーになる。
1967年当時であれば、当然にそのように解釈されたろう。
大の男が女の(性的な)視線にたじろぐなどという事態にリアリティは無かったかもしれない。
つまり彼は「大の男」になり損ねているに過ぎないのだ。

 

実は映画のラストで、この性的なファンタジーは単なるポルノではなく、現実的な政治・権力闘争の問題なのだと示される。
若松監督は当時の文脈において、現実的な闘争に疲れた/傷ついた男が退却する場として少女を夢想しているといっていい。

 

だが、それはつまり成熟した男女の関係もまた権力闘争の場だということだ。
実際、これを2022年に見る者は、そこに「性的弱者」男性の苦境と自暴自棄を見るかもしれない。
女からの性的な侮りの視線への、弱者男性の復讐劇と見ることができる。
それには一定のリアリティがあり、 現実にそれに似た構図の犯罪が起こってもいる。

 

 

だが1967年だろうが2022年だろうが、承認といおうが革命といおうが弱者男性といおうが、 結局男がやっている事は「無差別に女を殺す」事だ。
彼が現実的に抱える問題が、それが何であっても、彼の内面において女からの性的な侮りに置き換えられる。
それは一体何故なのだ?

映画「牛久」/見たくないから見ないものを見た

日本の「出入国在留管理局」(入管)の問題については、メディアにしばしば取り上げられている。
最近では、ウィシュマさんというスリランカ人女性の遺族が入管での非人道的扱いについての裁判を起こしている。
入管に収容中、彼女は深刻な体調不良を何度訴えても医師の診察を受けられず放置され、差別的な言葉を浴びせられながら「原因不明」で死んだ。

 

我々が良く耳にする入管の問題は、要するにこの不法滞在者/難民申請者の扱いについてのものだ。
このあたりの事情を個人的にそんなに知っている訳でもないので、漠然と「入国管理局には人権意識の低い差別的な連中がいて、行き場がなく立場の弱い入所者を面白半分に虐待してんだろう全く日本の面汚しが」ぐらいに思っていた。

 

要するに「そういう連中がいる」「そういう組織風土がある」みたいに考えてた。

 

そこでこの映画「牛久」ですよ。
「牛久」2021年 日本 イアン・トーマス・アッシュ監督

 

上記のような理解でこの人権問題を捕らえていたので、誰かがそれを隠蔽している、その悪事を暴かないとラチが開かない、みたいに考え、この映画の告発の手法に興味を持った訳だ。
この映画の多くの場面は、入管内部での入所者の姿や彼らの証言が、いわゆる「隠し撮り」の手法で撮られている。
場所は茨城県牛久市の入管。

 

もっともその手法も基本的には、入所者に面会を申し込み、面会の場面を隠し撮りするわけで、別に一般人が知り得ない入管の秘密が暴露されているわけではない。
基本的には入所者がただ所内の体験を話しているだけの映像である。

 

彼らの話の内容は同情すべきもので、しばしば入管の明らかな人権侵害や理不尽な対応も語られるが、それも含めて話の内容になにか秘密がある訳ではなく(実際こういう話はメディアにより既に外部に報道されている)、撮影は禁止されているのも、単に入所者の人権/肖像権への配慮など法的な都合だろう。
ただ入所者が自ら語り訴える姿には迫真性があり、彼らは(得体の知れない外国人なのではなく)普通にありふれた弱い立場の人間なのだと実感できる。その彼らがいかに理不尽な虐待を受けているかも。
(作品にはあからさまに暴力的で人権侵害を強く疑わせる「制圧」の映像もあるが、それは入管が記録として自ら撮影したものだ。おそらく訴訟などでの検証のために法的に義務付けられているのだろう。手続きを踏めば入手出来るのだと思われる。)

 

要するにびっくりするような秘密の暴露はない。
人権侵害の決定的な証拠となるものが映っている訳でもない。
もっとも全く予定が無いままいつ果てるとも知れず入所が続く事態は、本来それ自体が異常なスキャンダルではある。

 

ただ映画が進んでいくにしたがって、この人権侵害とその放置が、個別的な入管や職員の体質の問題などではないらしいことが明らかになっていく。

 

ここ数年、それこそウィシュマさんの問題等が報道されるようになり、入所者の人権状況が危機的な水準であることが明らかになって、外部の目が入るようになっている。

この映画がまさにそうだし、また作品内では国会議員がこの問題を取り上げる様子も描かれている。
特に議員が人権問題として国会で取り上げて以降明らかになるのが、これは法制度的な問題で、入管職員や刑務管の「人権意識」だの「差別意識」だののせいではないかもしれないということだ。

 

例えば難民に関していえば、日本政府は基本的な方針として難民を事実上受け入れない。一方で難民条約に加盟しているため政府は難民受け入れを広く広報しており、それを期待して難民申請者が多く入国している。
だが日本の難民受け入れはあくまで「制度はありますよ」という外聞を気にしたカタチだけのものなので、申請者のほとんどが拒絶される。

 

ただ難民は日本に国を追われて来ているので、拒絶されたところで帰ることができない。入管に収容されている人の多くがそれである。
(ウィシュマさんもその例で、帰国したら殺すとDV夫に脅迫されている。これはアメリカなどでは難民の要件を満たす事案)

 

つまり彼らは国家間の隙間に転げ落ち、日本における立場が存在しない存在な訳だ。難民としての入国を拒絶され、国内に「いないはずの人たち」「法的に存在しない人たち」な訳だ。

 

彼らは「いない」ので、あらゆる法的な取り扱いも出来ない。法的な保護がおよばず人権がない。いない人に人権は無いのだ。
(そのような司法判断も出ている。基本的人権の制限が合法化されている。もっとも難民条約に明白に反する判断だが)

法的にいないのだから現実にいようが彼らはいない。
法律ベースで動く日本の政府官僚は、彼らに何も出来ない。これは悪意というより不条理のようなものだ。

 

この存在の不確かさ、立場の不明瞭さが、結果的に入管の入所者取り扱いの不規則さとなっている。
入管にもどうすることも出来ない問題を抱えこまされていると言っていい。
(むろんそのような無法状態で、リアルに無法に振る舞う職員、刑務官の人権意識の低さは強く批判されるべきだ。)


映画はラスト近くになって急展開する。
入管という不条理空間から、突然現実社会とリンクし始める。
入所者たちに突如として仮放免が認められるようになるのだ。それもものすごい数。
作品中でも過半数が仮放免したと語られているが、今現在はさらに進み、入所者がほとんどいない状態らしい。

 

これは外部から働きかけがあったなどではなく、どうやらコロナが原因らしい。
入管が所内でのクラスタの発生を恐れて「密」な状態を解消にかかったようなのだが、公式にも非公式にも何の説明も無いのでわからない。

 

そんなことができるというのも驚きだが、なによりびっくりするのは彼ら仮放免者たちが、健康保険も無くワクチン接種券も無く、当然就労資格も移動の自由も無いままにコロナ流行中の市中に放り出されているということだ。
(この状態は今現在も継続している)

 

馬鹿なのか? 何から何まで間違った対応としか言いようが無いが、上述の通り入管にはどうしようもない事なのだろう。
とにかく映画を見て感じるのは、入管の対応が無茶苦茶だということだ。支離滅裂といってもいい。


先日ウクライナの戦争被害者たちが「避難民」として入国した。
難民認定率1%の我が国で、その数は驚きの400人越えである。この日本のどこにそんな法的な枠組みがあるのかと思ったら「特別措置」である。

 

なるほどこれは現在ウクライナで起こっている深刻な人道危機を受けて、日本の難民の受け入れに関してなんらかの態度変更を意味するのかもしれない、などということはどうやらない。

 

この特別措置が、例えば現在国内にいる(ウクライナ基準でいえば)明らかに「避難民」に合致する人たちに対しても適用されるかなどは議論されないし、また今後発生するかもしれない同じような事案についても特になんの言及もない。
難民の「特別在留許可」制度はあるが、それでもない。どうしても「難民」にはしないらしい。
単に今回受け入れただけである。過去とも未来ともなんの関係も無く、原則とも法とも無関係に、どんな理由で可能なのかも明らかでないままにだ。


そう、このあたりはもう無茶苦茶なのだ。原則が無い。なんでもアリであり、同時になんにもナシである。
その時の誰かの気分で物事が決まったり決まらなかったりする。その誰かが誰なのかさえ誰もしらない。

 

この映画の監督(イアン・トーマス・アッシュ 日本在住のアメリカ人)は、そこに日本人の人種差別意識の存在を感じているらしい。
例えば収容者が白人である場合、同じケースでもアジア人/有色人種とは対応が異なっているという例はいくらもある。
ウクライナ避難民に関してもほの見える、非白人に対する差別意識
この問題の「本質」にそれがあると。
それはそうかもしれないが、 だがなんというか、日本人として思うのだが、この一連の無責任さは、たぶん人種差別意識などという立派なものですらない。

 

ハンナ・アレントが、それに直面して言葉を失った、アイヒマンが繰り出す徹底して無責任な論理、その行為に理由も原因も動機も意味も無い、「本質」などどこにもない凡庸な悪である。
見たくないものは見ない、都合の悪いものは見えない、そういう態度が極まったものだ。

 

入管の職員、刑務感ひとりひとりの言動を見ると、明らかに人種差別的、外国人差別的、粗暴で非人道的な者がいるとしか思えず、またこの組織の体質そのものがそうであると考えざるを得ないのも確かだ。
だが問題は関係者個別の意識では無く、そういう振る舞いを可能にする枠組み、「日本の法が及ばない場所」が「見たくないもの」として存在し放置されているということだ。