20年間失われていたもの

スティーブ・ジョブズは根本的に音楽コンテンツに価値を見出さなかった。彼によれば音楽は価値ゼロで、実際iTunesでは当初、すべての音楽コンテンツをタダでばらまこうとしていた。iPodを売るためだ。
アップルコンピュータは一貫してハードウェアを売る会社だった。
MacOSMacintosh を売るための販促ツールの域を出ていない。少なくともジョブズにとっては、MacOS にはそれ固有の価値などなく、単にハードウェアとしての Macintosh の付加価値以上のものではない。
「価値」の真の源泉はモノ/ハードウェアであり、ソフトウェア/コンテンツには(あるとしても)副次的で従属的な価値があるだけだ。
音楽には特に価値はない。価値があるのはiPodであり、音楽には「iPodで聞くことができる」という純然たる付加価値しかない。音楽などiPodのために存在するに過ぎない、とジョブズは考えていたはずだ。
この転倒した考え方は、「価値」と「価格」を同一視しがちな我々には自然とは腑に落ちないものだ。
実際、麻生は日本のアニメコンテンツを産業としてプッシュしようとしたし、ホリエモンはテレビ局=コンテンツプロバイダを買収しようとした。情報化の進展で、モノではなくむしろコンテンツ自体が利益を生む時代になったのだと考えたからだ。
でもそうじゃなかった。コンテンツは未だに効率的にカネに化ける方法がない。
先日テレ東のWBSで、グローバル展開する韓流が韓国製品の輸出に貢献しているという特集をやってた。
シンガポールなど東南アジア地域ではすでに韓流が根付いていて、それが韓国の工業製品のイメージアップにつながっている。
店頭のサムスン製薄型テレビで少女時代が踊っていると、消費者の商品に対する印象が良くなるのだ。
韓流ドラマの人気が高いので、それが自然と韓国製品に対する信頼感になり、ドラマで描かれる「韓国的生活様式」が実質的に韓国製品の商品カタログになっている。
(ちなみに競合する日本製テレビはモーニング娘。を映していた。いくらなんでもフェアじゃないだろ。。。)
韓国は国を挙げて大衆文化を海外に売り込もうとしているが、多分それが産業として直接利益を生むなどと考えていない。ひょっとしたら二束三文でばら撒いてる。
韓流ドラマがこんなに増えたのは、見込める視聴率の割に値段が安いからだというのは良く指摘される。
それで韓国のプロダクションがどの程度儲けているのか知らないが(KARAや東方神起の騒動を見るとそんなに儲かってないんじゃないの?)、多分、韓国政府にとって韓流コンテンツ自体にはなんの価値もないし、それで儲けようとも思ってない。
彼らは価値の源泉はモノであり、工業製品の輸出こそが経済成長の原動力であると考えている。
インターネット環境がどこよりも早く整備された国であるにもかかわらず(あるいはだからこそ?)、情報・コンテンツはそれ自体としては利益を生まないと気付いてる。
だがそれは工業製品を売るために使える、と彼らが気付いたのはいつなのだろう?
日本では、いわゆるネットバブルが崩壊したときに「やはり情報コンテンツではなくモノ作りだ」と考えた。
日本の産業界が、生き残りのためには製品の高付加価値化が必須だと気付いたのはもう20年も前だ。
だが「付加価値」とは何なのかが結局わからなかったように見える。それは高性能・高機能化ではなかった。低価格化でも多品種化でもなかった。
「付加価値」とは、製品自体に内在するものではなかったのだ。


ジョブズは口八丁手八丁で自社の製品を実際以上に価値のあるものに見せかけることに成功している。
そして韓国の家電製品のイメージアップにK-POPの洗練されたダンスパフォーマンスが貢献しているとしても、それはあくまでイメージの問題だ。
ただジョブスも韓国も、工業製品としての実際的な価値以上のものを消費者に提供できている。
それは未来に対する肯定的なイメージで、明日は今日よりきっと楽しいと感じている新興国の中間層や先進国の若年層に、それは本当のことなのだと訴えかけている。「楽しい明日」はこの製品にあるのだと。
もしそうなら、肯定的な未来像こそが、この20年間の日本が見いだせなかった付加価値の正体だということになる。

狭くて閉じて均質で、目的も無く意味も無い

そのデモでの主張が、「フジテレビ韓流ゴリ押し反対」でいいのか?
日本は、大丈夫なのか??

反フジテレビデモに出くわして色々考えさせられた


デモの光景を見た違和感は、何となくわかる。
なんて言うか、それってデモのような政治的手段でアピールするような問題じゃないよね、という違和感だ。
時々いる、何でも「それって法律とか憲法で禁止されてる訳?」とか言っちゃうタイプの人に感じるような残念感つーかウンザリ感。
市民デモが報道されないなんて別に今に始まったことじゃないけど、それが何か偏向の証拠であるようにあげつらっちゃうとかね。(報道された左・市民系デモなんて何がある?)
で、ネット民の一連の既存メディアへの攻撃って、どうしても彼らが身内を攻撃しているように見えるんだよね。信じていたのに騙された! というロジックが頻出する。
で、それが社会的なデモになってしまう。

セカイ(私の関心の範囲)

フジというと少なくとも数年前までは、比較的(若く保守的とされる)ネットユーザーに標的にされることの少なかったメディアではないかと思う。
この手では定番は朝日だったし、NHKも在日認定くらいされてたのではないかな?
反日メディアとして数年前に確固たる地位を築いたのが毎日・TBSで、例の大ネタでそれまでのショッカー戦闘員的な小粒リベラル感が払拭された感じ。
多分これは順番に回っているので、次は数年後に読売系がバッシングの対象になると思う。
最近めっきり老け込んだ社主が、そろそろ名誉とか勲章でも欲しいのかここ数年来リベラルな姿勢を見せ始めているので、これは時間の問題だと思う。
テレ東? 菓子でも食ってろ。
バッシングが大手メディアをぐるぐる回ってるのは、単にネット民らの生活や関心の中心に既存メディアがあるということにすぎないが(彼らが現に口にするのとは逆に、マスメディアは彼らにとって非常に親しい存在だ)、これを見て最初に想起するのは教室で起こるイジメだろう。
特にさしたる理由もなく、ほんの些細なことでイジメの対象が選ばれ、その対象はやはりさしたる理由なくどんどん移動していく。
昨日まで何ともなかった行動や発言が、今日は攻撃の対象になる。誰かが主導しているというわけでもなく、今・彼がイジメられる本当の理由は誰にもわからないわけだ。

正しい主導者

ただそれ以上に似ていると思うのは、やはり連合赤軍かな。
別に今回のデモ参加者やその態度に共通するものがあるなんてことでは全然ない。
そうじゃなくて、身近なところだけで標的がどんどん移動していって、順番に攻撃していくという経緯。
多分、メンバーの関心の範囲がとても狭くて、その狭い中でだけ視線がぐるぐる回ってることで憎悪が膨らんでいくという(心理学的な)構図。
そして何より、教室にあるような対象の恣意性が無くて、ある主導的な存在により攻撃先が方向付けられていること。
連合赤軍の場合それは森常夫だ。
彼のミソジニー権威主義と結びついた攻撃衝動が(共産主義イデオロギーを口実に)、赤軍内の内ゲバに一定の傾向を与えている。*1
ただ問題はそのような主導者ではなく、もっともらしく語られるイデオロギー的な正しさに抵抗できずに付和雷同する成員たちだ。
彼らもまたそれぞれに考えがあり、それに基づいて行動しているはずなのに、森の語る無理な断定や強引な屁理屈、言葉の上だけの「正しさ」に抵抗できない。
普段ならそんな見え透いた詭弁など相手にもしないだろう知性の持主たちが、ある固有の状況の下でそれに抵抗できないどころか、加担さえする。

インターネッツ空間

連合赤軍キャンプと教室に共通する「固有の状況」としては

  • 閉じた空間である
  • 非常に狭い
  • 均質的な成員

ということで、まあ恣意的な抽出だが、こうしてみると初期の赤坂憲雄を思わずにいられない。
詳細は忘れたが、赤坂は教室でイジメが起こる仕組みを成員の均質性に求めている。

同じような成員による均質性の高い構造は非常に不安定なので、安定化のためにメンバー内に異端を発見してそれを排除するという運動が必然的に起こり、それにより均質性を確保しようとする。
無論確保された均質性はそれ自体非常に不安定なので、、、この運動が無限に続くわけだ。
フジテレビデモの呼びかけはネット上で広がっている。
呼びかけた人も応じた人も、多分「問題」を非常に狭い範囲でしか見ていない。
自分の私的な関心の水準、ネットでの雑談のレベルを超えない態度で、国家大の問題を語ろうとしている。
それは単に女性隊員の「髪が長い」ということが「反革命的態度」であるかのような把握の仕方、決め付け方だ。そしてそんな理由で制裁が合意されてる。
連合赤軍は当初から閉塞していた。組織の目的が見失われ活動の意味もなくなり、自分たちの存在意義そのものを(言いかえれば敵を)常に発見し続けることが必要であるような状態だった。
繰り返すが、今回のデモが連合赤軍のような暴力性をはらんでいるなどと言いたいわけでは全くない。
そうではなく、事物の把握の仕方、事実関係の理解の仕方が共にとても退嬰的だと感じるわけだ。
そして今回のデモは日本のネット環境の現状、ある閉塞したコミュニケーションの状況が引き起こしたような気がする。
日本のインターネッツでのコミュニケーションの
狭く、
閉じていて、
均質で、
目的や意味が見失われている、
状況があり、それを抜け出そうとする時に自動的に必然的に起こった「第三項排除」の運動であるように見える。思想なり主張なりではなく、単なる構造的・力学的な物理運動に見えるのだ。
顕在化したのはエスカレートしたからで、それは"主導者"により方向づけられているからだ。
しかしこれは外部への回路を開くものでも、コミュニケーション空間を押し広げるものでもない。むしろそれを拒むことで安定化しようとするものだ。
この安定化への運動は罠だ。この運動は、それを無限に続けなければならないような状況を作り続けるだけだからだ。

*1:大塚英志「彼女たちの連合赤軍」。よい仕事

韓流イケメンにレイプされてるのぉ ビクンビクン

いまいち同意できない部分も多いが韓流についての分析。時期的に前回フジテレビデモの頃のもの。
なぜ、水戸黄門が終わり、韓流ドラマが増え、USドラマにはけちがつかないか

いろいろ言われる国内メディアの韓流押しだが、このまとめではむしろそれはいわゆる「グローバリズム」の問題であるという指摘が(ちょっと)なされている。
以下もK-Popの国際展開をある種のグローバリズムとみなしている。*1

「K-POP」と書いて「グローバル・ポップ」と読んでみる:WIRED.jp

グローバリズムは多くの側面をもった概念だが、ここではポップカルチャー/ライフスタイルに関するものについて。
フジへのデモにしても、なんか「反グローバリズム」としての運動なのではないかと見える。
当人たちにはそんな意識はないだろうが(単に嫌韓感情で満ち溢れているにすぎないかもしれないが)、そうであってもこれは、国境を越えて拡大する強力なグローバリズムの圧力にローカル地域が抵抗するという、ここ20年くらい世界各地で起こっている事の繰り返しであるにすぎないと感じる。

韓国は、自国製のポップカルチャー・大衆文化を国家のバックアップにより世界展開していこうとする意図を隠していない。あの愛らしかったBoA(今は…)もそうだったらしい。
しかし重要なのは、現にそれが各国で消費者に受容されつつあるということだ。それは自然的なブームではないかもしれないが嘘でもない。TSUTAYAで韓流ドラマはレンタル数を年々増やし、おかげで韓流DVDのエリアがどんどん広くなっている。

グローバリズム」といえば前世紀末からアメリカが推し進めてきたものだ。その国家的・経済的な影響力と情報・通信革命を背景に、特に経済的な「グローバルスタンダード」が世界展開した。橋龍もこのビッグウェーブに乗れと言ってた。
これは各地域の独自の産業構造や流通形態、政治・経済体制までを破壊したが、新自由主義イデオロギーのおかげで肯定的に推進され、侵略とはみなされなかった。日本の政党政治液状化や地域のファスト風土化はこのあおりだ。

マクドナルドやスターバックスに関しては、やっぱり消費者が選んだものだ。
比喩的にはそれは「文化侵略」だったかもしれないが、現実には消費者はそれを選択し、歓迎したのだ。自分から進んで旧来の慣習や生活を捨てて行った。オヤジの経営する一杯500円の喫茶店より、スタバでエスプレッソ飲んでる方が快適で気分がよかったのだ。

そもそも何故我々はスタバでくつろぎiPhoneをタップしHipHopを模倣しフェイクタトゥーを入れる?
便利で安くて高品質で、みたいな「効用」は全部後付けのウソで、要するにそれが「楽しく」「気分がよい」からだ。その種の「快楽」に我々のカラダは抵抗できない。
理性ではそれはアイデンティティの破壊で文化的侵略で。。。と思っていても、この快感原則には勝てない。*2

これは80年代に村上龍がしつこく問い続けたことだ。当時の彼はポップカルチャーが簡単に国境を越えてしまうことの意味を考えている。最近は経済に傾倒しているようだが、アメリカのポップカルチャーがグローバルに浸透したのはドルの力が背後にあると考えたのかもしれない。
しかし韓国人はそうではないようだ。彼らはやっぱり「ポップ=快楽」こそが、それ自体で、国境を超えるチカラを持っていると考えているらしい。

楽しむことに後ろめたさを感じる人々

デモをしている連中の主張は一枚岩ではないだろうが、韓流自体が問題ではなく、フジが許認可事業としての放送局のあり方に反している、というようなことらしい。
まあ無理筋な主張ではある。反韓流デモとくくられちゃう理由だろう。日の丸が掲げられていることが、韓国はともかく、ある種のナショナルなアイデンティティーの問題であることを示している。

デモにとっては韓国であることは副次的なことかもしれない。だが多くの人が指摘するように、アメリカなら問題にならかっただろう。その「侵略」の背景にあるドルの力が明らかだからだ。いわば好むと好まざるとにかかわらず強いられてると強弁できるからだ。

だが韓流は? ウォンの力を考えれば、日本人自らそれを欲望しているとしか言えない。そしてそれは事実なのだ。
結局我々日本人が(部分的にではあれ)現実に韓流を欲望している、という事実が許せない人たちがいる。

実際、この件では矛先が韓国そのものではなく「身内」のフジに行っている。
K-Popを「ゴリ押し」しているのは最終的には韓国政府だが、そこにはいかない。それは国家戦略として正当であるからだが、むしろそれを受容してしまう「自分」が許せない。

(特に男は)下半身の欲望を上半身の理性が制御できなくなると、欲望の対象に道徳的な責任を転嫁することで理性の優位を欺瞞的に確保しようとする。
女が淫乱であったり性的に堕落していたりするのは、男が自分の性的欲望をその対象に投影・転嫁して語るからにすぎないが、反韓流にも多分同じ欺瞞がある。

というか、アメリカ発のグローバリズムへの対抗運動も、多分みんなそのような側面を持っている。マックでハンバーガー食ってる連中が反グローバリズムデモを行ってたのだ。
奴らが我々を侵食してくるからではなく、我々が奴らを欲望してしまう。レイプされてるのに感じちゃう私あぁビクンビクン、である。
それが強いられたことなら、そんな自分が許せないというのは当然あることだ。自尊心が奪われていると感じるだろう。

グローバリズムに抵抗する運動として、ほとんど唯一有名になったのが「スローフード」運動だ。あらゆるデモが、それこそ本家アメリカで起こったデモでさえ四散したが、スローフード運動だけはいまだ持続的に思想的影響力を持っている。*3
これは対抗運動だが、価値創造的でもある。自尊心の毀損の回復のためなら、そういう方向に行くしかない。

とはいえこれも結局はファストフードとの共存を避けられない。もう生活様式としてスローフード一辺倒なんて考えられないわけだ。
ここで単なる快楽だったものに実質的な意味や効用・必要性や利便性が見出され、文化とか呼ばれるようになるだろう。
デモも対抗運動も、たぶん反省的に「外来のポップ」にローカルな必要性や文化性を与えることになる。

それは結局自ら欲望したものだったからだ。
無理矢理レイプされて腰振ってしまった」なんてこと自体そもそも全くの作り話だったかもしれない。自分で選んで快楽に身を任せたことが体面悪くてデッチ上げた都合のいい狂言話のようなものだ。

むしろ下半身と上半身の分割線?を現実の国境線に投影しつつ、一方にのみ「自己」をアイデンティファイし、都合の悪い事をすべて他方のせいにするような態度そのものが問われていい。
たとえば視聴者と民放テレビ局の間に明確な分割線など引けるか?
彼らの振舞は、なにがしかの意味で我々の欲望を反映したものだということは認めなきゃいけない。

*1:ちょっと見つけた「グローバリズム」という語を使っているエントリ。ただここでは、経済合理性の問題であるというような意味で使っている。

*2:実は最近(世間的にはちょっと遅れて)KARAを聞きまくっている。確かに目新しくはないが、ウェルメイド以上のポップスという印象で、とにかく楽しい。

*3:あとマイクロクレジットくらい?

鳩山は「バカ」なのではなく「アホ」

ポルナレフならこう言うだろうか。
「意味不明だとか無節操だとか そんなチャチなものじゃ 断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ」
実際、この「茶番劇」における鳩山元首相の一連の発言・行動はほとんど常識的な理解を超えている。彼が何を言っても「お前が言うな」と返せてしまう、このボケ役振りは狙ってやってるなら天才である。
この一連の、菅と岡田と小沢と鳩山のコントを見ていて思ったのは、民主党という集まりの中で、鳩山はいわゆる(関西/大阪で言うところの)「アホ」なんだ、ということだ。
それはたとえば松竹新喜劇藤山寛美に似ている。
内面には素朴というより幼稚な価値観/正義感のみを持ち、周囲で起こっていることをおよそ理解していない。
おそらく単純な論理や物事の因果関係を把握できず、事物は個別に無関係に並んでいるだけだ。個々の事物に対し価値判断はあるようだが、文脈や意味を解さないため表面的な言葉尻に単純に反応し、結果的に矛盾した言動になる。
だが彼がより「アホ」的なのは、彼のアホさ故に結果的に周囲の問題を消去してしまうからだ。
彼は小沢と意気投合し、同時に反対の立場の菅とも同意できてしまう。
こんな不可能が可能なのは、彼が要するに小沢や菅の言っていることを理解していないからだ。小沢が「辞任させなければならない」と言い、菅が「辞任する」と言ったら、彼にとっては全てが解決である。両者ともに一定の条件や留保・含意があったはずだが、それを解さないため、もともとあった両者の差異/問題がなかったことになっている。
菅と話して彼は拍子抜けしたはずだ。「何だ、みんな同じことを考えていたんじゃないか」
彼にとって2日の代議士会での「団結の呼びかけ」は感動的なものだったはずだw
この普通には意味不明な彼の感覚が、現実に奇矯な言葉や行動になって表現されてしまうと、結局、相変わらず存在している小沢と菅の対立を隠蔽してしまう。
双方の損得勘定が「アホ」により開陳された非論理を受け入れてしまう。それは普通の頭では到達できなかった合意の地点だ。
両者の利害は対立していたのだ。が、アホの一振りにより状況が不可解に反転し、双方ともに自分を納得させる言葉を見つけてしまう。
素朴で善良?な本音が出てしまうと言ってもいい。双方とも根本的には党を割りたくはないのだ。本音の上に構築された個別的な利害や論理の対立が、鳩山の"非理解力"により脱臼させられてしまう。
だから一連の騒動は、茶番劇というより新喜劇だったと言った方がいい。

現実には勝者と敗者があり、菅は勝者だろう。鳩山は単に転がされただけに見える。
だが、最初から異なる勢力の寄り合い所帯にすぎなかった民主党が、まがりなりにもまだひとつであるのは、鳩山という「アホ」のお蔭なのかもしれない。
実際、2日の菅鳩の会談がなければ今頃民主党は分裂している。
「バカ」は壁を作るらしいが、「アホ」は壁をグズグズに溶融させるようだ。「アホ」がいるおかげで対立や差異が全く解消しないにもかかわらず消去されている。
だから多分、民主党を維持しているのは、鳩山の血筋や資金力というより、彼が「アホ」だということだ。*1
今鳩山は死ぬほど悔しがっているが、これもお約束のフィナーレ。彼はその意味だって本当はわかっていないし、会場は拍手と暖かい(!)笑いに包まれている。そして来週また新喜劇が上演されるように、民主党内のゴタゴタも同じように続くだろう。実は何も変わっていないのだ。

余談だが、一連の新喜劇での谷垣の出来はひどいものだった。不信任案提出という状況にあってさえ具体的な何事も口にできず、舞台そでに突っ立ってただそこにいるだけだった。彼の披露したネタで印象に残ったものが何かあったか?
菅を擁護するわけではないが、もし現在この非常時にこのような人物が総理であったら、、、、と思うと正直背筋が冷たい。

*1:トリックスター」とか気の利いた言葉を用いてもよかったのだが、まあ。