場の空気ってそこにいる人の自信の無さの反映だし

まあ民度は知らないが、なんというか表層的なネタで盛り上げずにいられないって、多分「沈黙に耐えられない」ってやつだろう。大げさに言うと、みんなと一緒で笑ってないと不安に耐えられないとうような脅迫的なものを感じる。
外部の人間がキモイと感じるのは、そのいじめやいじりの構図というより、そこまで必死になって盛り上がり楽しもうとせざるを得ない精神的な状態だと思う。
空気読みの求められる日本社会が民度の低さを表している:狐の王国

つまり人はこの日本社会で生きる限り、常にネタを求められるようになる。言われてみれば俺も日常的にボケ・ツッコミができるように先輩たちに求められて来たし、俺も周囲に同じようにしている。そうすることで「楽しい会話」がなりたち、笑いの多いコミュニケーションが楽しめるからだ(まったく上手ではないけどね)。

多分そこにいた人は、その場のつながりが極めて弱く、また自分自身の人間関係的なつながりを維持する力が弱いのだという自覚が(個々に)あるのだろうと思う。
みんなと一体感を得たくて笑い、自分がみんなと同じだと再確認して笑う、テレビの笑いの基本形がそうなって既に久しいが、その意味で会場もそれが再現されていたのだろう。全く新しくないが、現在的ではある。笑いどころがテロップで示されるように、ハゲという記号(とコメント)が用いられたに過ぎない。この共有する符丁に沿って皆で笑っていた。それがコミュニケーションだと思いながら。
この貧弱で稚拙なコミュニケーション、「楽しさ」を声を出して笑うという記号でしか表現できず、「関係」を一緒に笑うことでしか維持できない、「沈黙」を断絶・拒絶と受け取らずにいられないコミュニケーション不全感は、別に今に始まったことではない。
多分民度とも関係ない。
韓国の文化結合症「火病」はネットで有名だが、日本の場合典型は「対人恐怖症」だ。他者に対する恐怖、コミュニケーションに対する不安感が、この症状、コミュニケーションに対する硬直的な態度の原因だろう。
会場にいた人たちをまるでコミュニケーション弱者と名指すようになってしまったが、多分これは多くの日本人に共通するもので、だからこそ「空気」なるものが言われる。
我々は、当事者の誰も(例えば2人きりだったとしても)コミュニケーションをコントロールできないと感じるからだ。「コミュニケーション」は自分の手の届かないところにあると感じている。
これは多分「他者」がそうであるということと同じ意味で、私たちにとり他者はその意味で恐怖の徴になっている。
少なくとも会場ではニコ動がコミュニケーションの中心に(テレビのように)君臨している。
彼らはその場でニコ動に依存しており、それにより場のコミュニケーションがかろうじて成立している(ような気がしている)。そのことに自覚的で、尚且つ自分達はそれ以外に方法を持たないことに自覚的(な個々人)だからこそ、笑うことで空気のようなコミュニケーションを維持し、不安を振り払う。笑いの目的は不安の追放=他者の消去だ。みなで一緒に声をあげて笑うことが唯一の方法である。
暴力(攻撃)は最も初歩的なコミュニケーションの方法で、ここで笑いは攻撃として現れている。これをいじめの構図というのはその意味で正しいし、民度が低いというのもその意味で正しいが、しかしそれ以上に実質的に彼らなりのコミュニケーションの方法なのだ。
そう思うと、ハゲを笑うことに攻撃の意図はないというのは本当だろう。ただ一般的ないじめも多分これと同じなのだ。そこに悪意は無く、だた誰もそれを制御する自信がない。抜け出すことさえできない。
あのー、それ、普通にいじめなんですけど:Thirのはてな日記

こうなるともう、「排除」された人間だけではなく、同調圧力により外に出る力を潰された人間も(別の意味で)被害者となる。

ここでのいじめが問題なのは、彼らがそのような稚拙な方法でしかコミュニケーションを維持できないからだ。だから彼らに事の善悪を言って分かることではない。そしてニコ動大会に参加したこの件の擁護者達コメントが「キモイ」のは、この自身のフォビアに基づく防衛機制的な行動を、まるで自分たちの主体的に選び取った行為であるかのように語り、正当化しようとするからだ。