またフジか

「少林少女」が評判が悪い。見に行くかどうかはまだ決めておらず、したがってここでこの映画に言及はしない。多分行かないし。
テレビ局(特にフジ)の製作する映画の不愉快さは、出来の悪さではなく、そのことに無邪気に居直っていると見えることだ。
その代表作、史上最高の興行収入となった「踊る大捜査線2」も、駄作と言うよりほとんど映画としての体を成していない状態だったが、製作側は満足そうだった。興行成績が良かったし「フジテレビらしい」出来だと製作サイド自身で言っていた(監督ではなかったと思うが、、)。
もっとも見に行った方は悲惨というか、見ていて惨めな気持ちになってくるものだった。「3」も作ると先日発表されたが・・・
これまでを見る限り、テレビドラマのスタッフが作る映画は基本的に映画の形をしていないが、これは単に技量不足、あるいは映画というものに関する基礎的な知識不足に由来していると思う。*1
それはある意味やむを得ないのだが、実際に出来上がった作品を見てみると、自らの映画的技能の無さ自体を容認しているように見え、「まあこんなもんかな」という感じで作ってある。
自分がアマチュアであるという自覚はあるのだろうが、アマチュアとしてはこんなもんじゃないかな、という妥協や、それによる自己正当化が見えるのだ。逃げといってもいい。
要するに、アマチュアと名乗ることで、自分にかかる責任を回避できると思っている。そもそも「責任」の発生を恐れてプロフェッショナルを正面から志向できないのかもしれない。
「映画」製作に「真剣」になれないのだ。そうすることで自分の限界が露呈し・指摘されることを恐れている。
おそらく駄作の自覚はあり、時として、あえてそのようなものを作ったのだと気味の悪い「下から目線」で自分から言ってしまうのは、この不安感から逃れたいからだ。(彼らにとって批判は全て「想定の範囲内」であるかのようだ)
彼らのこのような立場をモラトリアムと言っていいと思うが、現在ならニート的と言ってもいい。
簡単に言って
「ちゃんとした「映画」つくったら負けかなと思っている」
のだ。
その心は? 本人がなんと言おうと、いま戦っても勝てないと知っているからだ。したがって戦いのフィールドに上ること自体が敗北だ。
だから最初から戦わない。多分彼はこんな調子でこれまで戦ったことが無く、一度の敗北に耐えられないと感じている。そして自分を変化・向上させることなく、現在のありのままの自分が受け入れられるフィールドを探している。(BGM「世界でひとつだけの花」 by SMAP
そこは通常、経済力の裏付けによってのみ可能な事実上の仮想空間だが、フジテレビにはそれがある。
「フジらしい」といった。無論これは「所詮はアマチュアだから大目に見て」という意味で、これを恥ずかし気も無く言ってのける神経はちょっとついていけない。
多分テレビ番組のメインのターゲットが、現在なんのプロフェッショナルでもない学生層なので、プロフェッショナルな技能を志向することは(そう見られることは)テレビ局としては「危険」なのだろうと思う。
例えばニコ動もプロが忌避される傾向があるが、要は子供の稚拙な遊びとしての楽しさ、という自覚があるのだ。実際、自分が学生のころには、まともにニュース原稿を読めない女子アナウンサーに違和感・嫌悪感を持たなかったし、肯定的にさえ見られた。
しかし今はもうダメ。
社会に出てそれなりに「プロ」として(大したものじゃないけど)振舞わなければならない環境に長く身を置くようになると、そのような態度にイライラしてくる。
女子アナ達があくまでも「女の子」としてのみ扱われる様を見て不愉快としか感じなくなった。
この種の専門的技能・スキルに対するフォビア(と見える)は一体なんだろう? それがテレビ文化なのだと言えばそうなのだが、そのようにして出来上がった映画を入場料を取って劇場公開しようと本気で考えるのは、常識的な経済・社会感覚を失っていると言える。
その意味では、この現象が不愉快なのは、単にそこに現実の経済が絡むからだといっていい。作品の質に見合っていないと思われる入場料や制作費と、観客の自分で稼いだわけでもないカネが、実質的な効用など生まないまま無駄に自己肯定的に出会い、経済規模だけデカくなっていることが不愉快なのだと思う。
これは私の問題で、こういうのを面白いと思えるトシではなくなったのだ。現にこれを喜んで見る人は多くいるわけで、実は一連のフジテレビのやり方はそんな彼らの脆弱なあり方を反映したものに過ぎないのだろうとも思う。

*1:実は意図的なのではないか? と思えるフシが無いではない。
現在の映画文法が、テレビ局の想定する観客に受け入れられていないと判断しているのかも知れない。本文ではああ書いたが、実際は彼らはテレビ番組製作のプロなのだ。