アメリカ共和党は副大統領候補にJ・D・ヴァンスを選んでいる。
彼はアメリカ中西部ラストベルトの白人貧困層出身で、エリート階層にまで独力で上り詰めた男だ。
トランプ前大統領の支持層にとっては理想的といっていいキャラクターで、だからこそトランプに気に入られたのだろう。
トランプ自身は例の銃撃事件以降発言のトーンを落としていたのに代わって「過激な」発言を受け持って目立っていた。もともと彼の政治姿勢は極右と言っていいものだ。
ただ最近はトランプの発言も元の「過激さ」が戻ってきており、今や共和党の候補者は2人ともボケ役の漫才みたいになってて、印象が散漫である(笑
民主党のハリス副大統領が、従前の評判とは裏腹に、オモテにでてきて印象がいい人物なのに焦ってるのかもしれない。
むしろヴァンスの副大統領としての資質こそ疑問視される様になっている。
彼の著作「ヒルビリー・エレジー」は、企業家として成功した彼がその貧しい生い立ちを語ったものだ。
だいぶ以前にこれを読んだときの印象は、実はあまりよくない。
というか面白かったのだが、著者がとにかく俯瞰的、反省的、批判的な見方をしないのだ。要するに自分のことしか考えない。
彼は少年期は、薬物中毒の両親を離れて祖母に育てられるなど、とんでもなく貧しく悲惨である。
彼の崩壊した家族に限らず、地域社会全体が暴力だの貧困だの犯罪だの麻薬だのであふれている。
変化や教育を拒み、古臭い価値観や閉鎖的な人間関係を守り続けた結果、地域丸ごと貧困に落ち込み荒廃していったような社会だ。
彼はそこからアメリカ社会の頂点、上位1%の富裕層にまでのし上がる。
彼は頭がよくて努力家で、計画性があり意思が強い。貧困社会のなかで、周囲に染まらずに独力で階段を登っている。
一方で、彼が経済的、社会的に成功したのちも、自分の過去の劣悪な環境に疑問を持つことはない。
下層社会を取り上げる「社会派ドキュメンタリー」は、大抵リベラルなインテリによって書かれる。
貧困や格差などの社会問題が批判的に分析され、不正義が告発されたり改善が提案されたりする。
だがこの「ヒルビリー・エレジー」にはそのような視点はない。
成功者の自伝だということを差し引いても、そういう社会環境への頑ななまでの(読んでてそう感じる)無関心には違和感がある。
ヴァンス自身は、自分が幸運に恵まれたとの自覚があり、それ抜きには自分一人のチカラでそこを抜け出すことは不可能だったと理解している。
それでも貧困層の現実に疑問を持たない。
彼にとって、幸運も含めて自分は自分のチカラで成功し、そうできなかった人たちは単に貧しいままだというだけのことだ。
貧しさにとどまることも、抜け出すことも、結局は本人の問題なのだと言っているようにみえる。
ただそれは「自己責任」というものでもなく、悲惨なほど貧しいとしても、それは別に誰が悪いという話じゃないんだという、諦めとも達観とも見えるようなものだ。
誰も手持ちのカードで戦う他ない、という個人の人生観としてわかるものではある。
ヒルビリー Hill Billy とは「丘の上にいる間抜け」程度の意味で、アメリカ中西部の高地帯に古くに入植した欧州移民の末裔だ。彼らはその閉鎖的な社会の中で、古い生活習慣を変えようとせず、ずっと貧しいままだ。
この自伝を読みながら、個人的に「ヒルビリー」の姿としてイメージしたのは、映画「ディア・ハンター」の主人公たちだ。
(ヴァンスの育ったオハイオの隣、ペンシルヴェニア州が舞台だ)
この映画の主人公たちも、自分たちの身の回りの、古く狭い生活意識から抜け出すことがないが、あるとき突然意味もわからずベトナムの戦場に放り出される。
彼らは自分たちが戦っている戦争の意味など考えない。
彼らには戦争は、自分の身の回りに降って湧いた個人的な災厄で、いかに自分の責任でそれを乗りきるかだけのものだ。
彼らはそんな等身大の私的信条だけでベトナム戦争という冷戦構造下の米ソ代理戦争に臨む。
出征前夜、彼らは酔いながら「君の瞳に恋してる」を半ばやけっぱちで歌う。
彼らにとって、アパラチア山脈の外にある「アメリカ国家」と自分たちを繋ぐものはポップミュージックくらいしか思い浮かばない。この歌くらいにしか自分たちが米軍に従軍する理由を見い出せない。
「ヒルビリー・エレジー」の描くヒルビリーたちは、言ってしまえば愚かだ。
自分たちの狭い世界観にまったく疑問を持たず、変化する世の中を知ろうとも適応しようともしない。
一方で彼らは、閉鎖的だが排他的ではないし、自責的ではあっても他罰的ではない。要するに悪い連中ではない。
ヴァンスは自著の中で、自分もひとりのヒルビリーとして、素朴といっていい彼らの姿を描いている。
だが彼の著作の語彙と、政治家ヴァンスの語彙は微妙に異なっている。
彼らヒルビリーたちの心情を政治の語彙に変換するとき、排他的な攻撃性が入り込んでいる。
そして彼の著作で語られる(ヒルビリーの)生活信条にはそれを許す隙間がある。
戦争になれば真っ先に戦場に駆り出されるのはヒルビリーたちだ。そんなのはまっぴらだという私的感情が、政治的語彙としては「ウクライナがどうなろうと知ったことではない」という排外的な孤立主義として表れる。
彼の支持者たちは、彼ら自身の語彙とは微妙に異なっている、しかし表面的には同じようにみえる政治スローガンを、まるで流行りのポップミュージックを歌うようにかなり立てている。
それこそが自分とアメリカ国家を繋ぐものと感じている。
あるいはそこにある排他的な攻撃性こそが、自分たちを国家と結びつけるのだと感じている。
(リベラルな都市住民としての)偏りを覚悟で言うなら、彼らのこの素朴さはやはり悪である。
彼らだってヴァンスやトランプの言葉にある違和感に気づいていないはずがない。そもそも自分たちが国家と結びついたからどうだというのか?
だが他人のいう善だの悪だのの前に、現に彼ら自身が、その地域(ラストベルト)まるごと取り残されているという無力感に蝕まれている。それでも自分たちが変わることをしない。彼らは「見捨てられて」いると同じくらいに自分たちを「見捨てて」いる。
彼らの素朴な自己責任の感覚が、どこかでセフルネグレクトと結びつき、それが政治的に搾取されている。
個人的に「ヒルビリー・エレジー」という作品に感じた微妙な不快感の原因はたぶんそれで、この無力が政治により利用され尽くされ捨て去られる様をマイケル・チミノが「ディア・ハンター」で執拗に描いている。