妄言 暴言 自己実現

舛添現厚労相は、最初に国政選挙に出たときに、「私の言っていることを聞いて、同意してくれるなら私に投票してください」と言っている。比例代表制であったにもかかわらず「自分の名前を」と言っている。
既に旧来の55年体制や与党内の派閥政治も崩れつつある時期で、そのような状況下で「選挙で○○票取った」というのは、派閥/政党を超える力なのだ、例え有力な派閥に属さぬ一年生議員でも、その背後の有権者数が大きければ自策を国政に反映する事ができるのだと訴えている。派閥政治が瓦解しつつあり、与党の重鎮たちも有権者の声を無視する事ができなくなっていた。小泉首相の一連の改革もこのような状況を利用したものだ。
中山前国交省の問題を見て思ったのは、いまや政治家、特に大臣であるということは「自己実現」のためのツールに過ぎない(と考える人がいる)ということだ。
一連の妄言の中で、中山前大臣は国政のことなんてこれっぽっちも考えていない。アスリートが国のためでなく自分のためにメダルを目指すように、彼は国交相就任を自己実現の成就としか考えていないように見える。以降の発言は「本当の自分らしさ」爆発で、ほとんど「チョーキモチいい」レベルの発言である。そこにイデオロギーなりを見るのはあまり正しくないとさえ思う。*1
小泉以降、政界内で政治家個人のチカラが旧来の派閥などと比べ相対的に大きくなっているのだろう。だからこそ強力な個人のリーダーシップが求められているとも言えるが、おかしな妄想を個人的に抱き続ける奴が出てきている原因かもしれない。自分の(時に手前勝手な)信念毅然貫く態度をとることが、「強いリーダー」の自己イメージに結びついて、自己肯定感に酔っちゃってるんだろう。
この種の「自分らしい」政治家の先例に現都知事がいるが、彼はまだマッチョなリーダーであろうという意思において政治家らしい。彼の暴言はまだ政治家のするものに聞こえるのだが、中山(に限らず最近のある種の政治家)のものは、チラシの裏にでも書いてろレベルだ。発言内容がそうだというのではなく、それがひどく内的/独白的・ポエム的で、他者が想定されていないからだ。他者との関係の意識が無いという意味で(いかに威勢が良かろうと)リーダー的でなく、政治家的でない。

関係ないが、「妄言」という語はもうすっかり日本語に定着したな。もともと韓国あたりの語だと思うのだが、以前から使われていた「暴言」より、中山のような発言にある度し難い多幸症感がよく出ている。

*1:彼なりに「教育」に関しては独自の主張というか信念があったようだが、しかし自分は国交相だということを完全に忘れている。そういったことを意に介していなかったのだろう