実際のところ、我々は結構自由だ

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トラックバックしたくはなかったのだけど(ブログ主の言うとおり下品なトラバが多いし)、まぁ面白かったので(笑)

なんというか、無茶苦茶であはるが、彼女の言っていることは全部が全部トンデモというわけでもない。

普通に考えれば、個人による私的な差別感情を禁止してる国なんて、少なくとも民主国家には無いと思う。
例えばどの国の刑法でも個人が他の人物に殺意を抱くことを禁止したりなどしていないし、ボーナスをもらった会社員がホームレスを軽蔑することを禁じている国も無い。
ブログ主はシカトなんかの陰湿な?イジメの被害者でもあったらしいが、その体験自体が示すように、別にそれはまったく禁止されたことではない。誰も自由に偏見を持ち、差別意識を持ち、それに基づいて行動さえしていると思うのだが。。。
この種の内面における思想信条の自由は基本的人権であると見なされており、法において保護されているはずなのだが、なにが不満なのだろうか?

個人の内面において許されていた思想が、それを行動に移した時には社会的制限を受ける、もしこれを理不尽としてわめいているなら、個人と社会の関係の基礎をもう一度考えてみる必要がありそう。
実際、この種の人が(被害妄想的に)思うほどには我々の自由や権利は抑圧されておらず、実際には差別的行為ギリギリのところまでなら結構許されている。
まあ、私は差別感情を持つだけでなく(ギリギリを越えて)差別的な行為をしたいのだ、それが擁護されるべきなのだ、というような主張なら、多分差別する側だけでなく、される側の基本的人権も問題になりそう(笑)。それが「社会的制限」というものだ。

しかし上述したように、彼女のしたい差別が単に「禁止されない」「許される」だけでなく、積極的に「擁護される」ことを望んでいるのなら、ちょっと厳しいかな。彼女自身が言うようにそれは「道徳的に悪」だからね。
法が積極的に差別に関与して欲しい、というのも同じように難しそう。「差別権」などといっているが、私人同士の関係に国家レベルの法の関与があるべきでないのは彼女の言うとおりだし。(というか権利とか自由とか人権とかの概念を大雑把に扱いすぎ。差別権は基本的人権ですって。。。。)

しかしそんなことは彼女自身十分承知しており、それゆえに憤ったりしてるようだ。
・・・難しいねぇ。難しいのは差別の問題じゃない。何が難しいって、誰が彼女の味方になってくれるのか? という点が彼女にとって問題になっているかもしれないからだ。
彼女は具体的に何も言っていないが、彼女のしたい差別は、現在の日本の社会でそれなりに可能なのではないか? ただ広く「擁護・支持されない」というだけで。
では彼女の本当の不満は何? 「差別禁止を叫ぶ人々」って? 彼女の差別への意思を抑圧しているのは本当は誰?
要するに、だれも話を聞いてくれない、とかそんなことである可能性がある。