ありきたり、ではあるかもしれないが

確か正岡子規だったと思うが、これと同じことを言っている。

ありきたりな話。:増田

西洋人は、死ぬこと=自分が無くなることなので「恐い」というが、そもそも自分には「自分が無くなる」という感覚が理解できない、というような感じだったと思う。
死ぬ時に何らかの肉体的苦痛を伴うならばそれはイヤだし恐いが、「自分が無くなる」って何? 西洋人は何が恐いの?? というもので、つまり子規が分からなかったのは「自分が無くなる」ことではなく、西洋的な「自分」=自己や self という概念そのものが分からなかったのだ。

これは上記の増田や子規に固有のことだろうか? あるいは近代化/西洋化以前の(つまり江戸時代の)日本人はみんなこのようだったのだろうか?

だが、日本の近代文学はつい最近まで、「自我」・「近代的個人」の確立が誕生以来の一貫したテーマでありつづけた訳だが、この試みは最終的に未達成のまま放棄されたように思う(まだ続いている?)。
実際、上記増田についたトラバを見ても、見事なまでに「自己の消失」についてを語る人がいない(3/10現在)。これじゃ「文学」が読まれなくなるのも当然か。

ぶっちゃけ自分の話をすれば、感覚としてはこの増田に近い。正直「自己が失われる」っていう感覚は腑に落ちないところがある。

宮台などはこれを「民度が低い」というだろうし、あるいは直接的に「ヤンキー」と名指すだろう。「自己」の無い、前近代的な人間として。
彼は対立概念として「オタク」を挙げていて、これは「内面」を有した人間のことだ。が、それが彼にとって近代的個人を意味しているのかは分からない。自分はどちらかというとこの「オタク」に近いと思ってはいるのだが、、、

東京ヴェルディネルシーニョ監督はものすごいワーカホリックで、睡眠時間を削ることについて「ただ眠るだけなら死んでからでもできる」とコメントしたことがある。
無論ユーモアだが、このユーモアが成立する背景には「外部から弧絶した個人」という観念があるような気がする。生きること・死ぬことが単なる自然的/生物学的、あるいは心理学的現象以上のものと見なされている。

病牀六尺 (岩波文庫)

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